匙を投げたいけど

匙を投げたいけど

面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

外出してもしなくてもストレス

私は圧倒的インドア派である。かのファーザーの「家より外なんてもう必要ないぜ?」(神聖モテモテ王国6巻「マンガ家でもてようとする」より抜粋)というセリフが名言だと信じる程度にはインドア派である。そのため、出産後に多くの女性がつらいと感じるらしい「外出できないストレス」には縁がないだろう、と甘く見ていた。



出産前、インドア派の私は、不要不急の外出をしなかった。外出すると疲れるので、たとえば土・日と休日が続くときには土曜のみ外出し、日曜は予定を入れることをできるだけ避けていた。ただ、なにか欲しいものがあると大きめの街へ行ってその商品を実際に見るとか買うとか、そんなことができた。仕事帰りにコンビニやドラッグストアや100均にふらりと立ち寄ることもできた。けれど、それも頻度は高くなかったので、それができなくなってもたいした打撃にならないと思っていた。



出産直後。「買い物は目的のものだけしか買えない」「ウィンドウショッピングなどもっての外」といった、あそび部分がまったくない状態になるとかなりこたえた。自分の新しい一面を発見した気分にもなった。陳腐な表現だが、外出「しない」と「できない」には深い溝があるのだと知った。



出産後二年以上経つと、物理的には外出できるようになった。けれど、難易度も段違いに上がった。



平日は保育園の送迎があるので、自分の都合で買い物などほぼ無理である。そうでなくとも時間がいっぱいいっぱいなので、さっさと帰宅して寝かしつけまで完了させなければならない。思い通りにならない生物が相手なので基本的にぐずりまくるし、なだめるのも大変だし、時間のロスがどれくらいになるのか読めない。まず予定通りにいかないので、大変ストレスフルである。また自分がHPMPの少ない雑魚キャラなので、寝かしつけと同時に毎日寝てしまう。つまり自分の時間はほぼ皆無である。



休日は、物理的に外に出ることはできるが、野放しにするわけにいかない生物がつねにくっついている。外出させないと体力を削れないので、雨でなければ休日も毎日外出するようになった。これで私も立派なアウトドア派である。



抱っこ紐なら比較的ましなのだが、もういい加減子が大きいので、修業みたいになっている。たぶん抱っこ紐を外したら、めっちゃ重いリストバンドを外して本気を出すキャラみたいに素早く動ける。そして抱っこ紐で長距離を歩くことは不可能である。もともと持っていた肩こりと腰痛とは、さらに親密度が上がった。ベビーカーはない。我が家は狭くて置く場所がないので、持っていないのである。



抱っこせずに歩かせると、これまたとんでもないことになる。外には誘惑がたくさんある。道に落ちているもの、小石などがすべて興味の対象になる。虫と煙草にさわらないのがせめてもの救いだ。というか道端の煙草は滅せよ。



さらに、買い物に行くのも大変だ。子が店に入るのも嫌がっていた時期も大変だったが、それはなんとか脱した。店には入れるようになったが、今度はカゴを持ちたがるし振り回す。その上、面倒になったら投げたり落としたりするので一瞬たりとも気が抜けない。子はそぞろ歩くので、通路ですれ違う人に迷惑にならないよう頭を下げまくり、自分の買い物どころではない。そしてカゴに商品を入れたがる。欲しいものじゃなくて「買い物ごっこ」をしたいので、無意味に入れる。なぜかよくパプリカやブロッコリーを買いたがるのだが、本人は絶対に食べない。野菜は食べない。責任を取って食べたまえ。



というわけで、今はまた別の意味で家より外はいらない気分になっている。家より外がなければ、外出で苦労することもないからだ。

タイトルが長くて紹介しづらいけど、良い片付け本を読んだ

良い片付け本を読んだ。なぎまゆさん著『「ちゃんとしなきゃ!」をやめたら二度と散らからない部屋になりました』である。片付けについてのコミックエッセイだ。以下、共感や説得力を感じた点にいくつか触れる。



この本(以下「散らからない部屋」)の根底はこんまりさんメソッド(明言はされていない)だが、こんまりメソッドではしっくり来なかった部分の補完になっていた。こんまり本を知らない人が「散らからない部屋」を読んだらどう感じるのかはわからない。けれどこんまりメソッドにそれなりに納得はしたが、自分には合わない部分もかなり感じた私には、非常に有意義な本だった。たとえば、こんまり本の「この手順を守らないと絶対にリバウンドする!」という主張や、自分とモノの仲良しさ加減を他人にも強要するような部分がなじめなかったのだが、「散らからない部屋」にはそれがなくてよかった。



また私は「日本人には全員、たたむ遺伝子がそなわっている」といったこんまり本のくだりが、どうしても納得いかなかった。自分がたたむことが苦手、というのがいちばん大きな理由だ。が、もう少しもっともらしい理屈をこねると、遺伝子は「種としての生物が環境などを生き抜くために獲得した特質が組み込まれるもの」というイメージがある。そして「服をたたむこと」が人間という種が生き抜くために必要だったのかどうかと考えると、どうもそうではない気がする。そのため、こんまりさんの主張がとてもじゃないが納得できなかった。



話はそれたが、「散らからない部屋」はそのへんを「たたむのが苦手な人が、どれくらい過程を簡略化したら生活を維持できるかを考える」という手法で解決していたのは素晴らしかった。「散らからない部屋」はすべて「自分の性格で維持できるかどうか」という考え方が徹底していたのが、私には好ましかったのだと思う。こんまりメソッドのように価値ある方法でも、性格を無視して押しつけられると反感が先に立ってしまう。私は小物かつ無精者なのだ。



こんまりメソッドでは、片付けの際はまずモノを出して(集めて)分類し、その種類ごとに片付けるのがセオリーだ。しかし「散らからない部屋」では、あまりにモノが多かったので場所ごとに片付けた、という例外が取り上げられていた。「セオリーがいちばんであるが、今回は例外としてこうした」といった旨の注釈がついていた。あまり例外を自分に許しすぎると片付けられない、という危険性はある。しかし、どんなことがあってもきっちりメソッドを守るというのはなかなかハードルが高いので、これもだいぶ気持ちが楽になった。



「散らからない部屋」で述べられていた説でもうひとつ、非常に納得できるものがあった。モノの要不要を分ける際は頭を使って疲れるので、その場から移動して別の場所を片付けたくなる。しかし別の場所に行っても結局片付かないので、モノがなくなる=すべてについて要不要を決めるまで動かないのが鉄則、というものだ。さらに「収納場所が決まっていないモノを動かしても、結局モノを動かしているだけで片付いていない」というのも、身に覚えがありすぎた。自分の場合は片付けだけではなく、外出準備などでもむだに動いているだけではないかと感じることが多いので、もっと効率的に動きたいのだが。



収納では、衣装ケースなどに片付けたものがわかるよう、間に合わせで良いからその場でラベルをつける、というのもわかりやすかった。あとで名札やラベルを綺麗につけようと思っても、無精者はほぼ実現不可能という主張もわかりすぎた。そもそもそういうことがマメにできるんだったら、部屋は散らからないのだ。また、作者のなぎまゆさんが実践している「自分の記憶力は一切信用しない」「他人に伝えるように、やりすぎかなと思うくらい詳細な情報を書いておく→結果的にそれが役立ったことがある」というのも、私も経験したことがあって、深くうなずいた。スマートなやり方ではないけれど、自分にもかなり向いていると感じた。



挙げるときりがないが、このように共感や納得をする部分が多かった。片付けのツボを押さえつつ、自分の性格に合わせて目的を達成(=綺麗な部屋にする)するための仕組みを考える、という考え方が徹底していたのが、とても良かったのだ。実際に「この本のやり方は自分には合わないと思う人もいると思うが、そこは自分に合わせてカスタマイズすると良い」といった旨のことが描かれていた。その姿勢も非常に好感のもてるものだった。



惜しむらくは、紹介するのにタイトルが長いこと…もとい、実際に読んでみたら「タイトルとちょっと違うかな?」と思ってしまったことだ。「ちゃんとすることをやめたら」という部分に惹かれて読んだのだが、充分きちんと片付けをしているなあ、と感じた。勝手なイメージなのだが、ずぼらな自分でも楽をして片付けができる方法があったら良いな、などと虫の良いことを考えてしまったのだ。けれど、そういう内容ではなかった。むしろそういう虫の良い片付け方法はないのだ、と思い知らされる内容だった。



タイトルの「ちゃんとしなきゃ!」というのは「きちんと片付けられる人と同じ方法で片付けなければ、と考えること」を指しているように思う。そのため私が抱いた印象とは齟齬があったのだが、でもこのタイトルじゃなければ、おそらく私はこの本を手に取らなかった。やはりこのタイトルで良かったのだろう。

庶民に摂取しやすいタンパク質といえば、納豆と卵だと思い込んでいる

今回は納豆と卵への思いを書く。


先日、あすけんでほんの少しだけ減量できたと書いた。カロリーが確認できるのは利点だと感じて前回の記事を書いたのだが、あすけんでもうひとつ利点だと思う点があった。

栄養素も確認できる点だ。


カロリーオーバーすると、あすけん姉さんからもちろん叱られるが、姉さんは栄養素の面でもけっこう叱ってくる。私は食事に対する意識が高くないので、「バランス良い食事といえば、たんぱく質と野菜を揃えて、炭水化物はなんだかんだでいつの間にか摂れてるだろう」くらいの感覚だった。また妊娠中に自治体で受けた講座で、ふだん何を食べているかのアンケートがあった。ここで「量は問わず、ひと口でも食べていればカウントしてOK」という注釈があったため、「なーんだそれでいいんだ!」とさらに気持ちが軽くなった。(余談だが、その講座でベーコンやソーセージはたんぱく質ではなく油脂だと断じられたのにはしょんぼりした)


しかし、あすけん姉さんはそれでは許してくれない。当然だ。彼女は栄養士設定なのだ。


何日か記録しているうち、コンスタントに不足している栄養素がわかってきた。ビタミンサプリと食物繊維サプリに手を出した。あすけん姉さんに指摘されることは減ったが、のみ込みづらいのがつらい。


いちばん指摘されるのがたんぱく質不足である。個人的に、たんぱく質はたいてい好きだ。肉・卵・乳製品といった畜産食品はとくに好きだ。魚ももちろんきらいではない。喉に骨が刺さりやすいので、骨がごつかったり多かったりする魚は避けてしまうが。


ただ、己の欲望のおもむくままにたんぱく質を摂取しようとすると破産する。肉も魚も高い。野菜だってお安くはないけれど。


そこで庶民にも入手しやすいたんぱく質、納豆と卵である。幸い、納豆も卵も食べるのは苦にならないので助かっている。正確には、食べるのが苦にならないのは納豆で、卵は好物に含まれる。


納豆は定期的に食べたくなるが、納豆自体の味が好きというよりもたれとからしの味が恋しくなるからではないか、とは思っている。ひきわり派だとか粒派だとかあるようだが、そういうこだわりはない。そのため、納豆好きを名乗るにはおこがましい気がしている。あんこなら断然つぶあん派なのだが。


以前、某スーパーのプライベートブランド納豆を食べたら、ふんわりしていておいしかった。卵を入れていないのに卵っぽいふんわりさ加減だった。が、からしの刺激もやわらいでおり、ちょっともの足りなかったので、冷蔵庫にあったマスタードを足してみた。そしたらアメリカン納豆みたいな感じになった。それはそれでありだったけれど、宗旨替えするほどではなかった。


また、薬味がない納豆をうっかり買ったとき、冷蔵庫にあったゆず胡椒を入れてみたら、納豆っぽさが一切なくなった。これは納豆が好きではない人でも食べられる味なのではないか、と思ったが、私は納豆が抵抗なく食べられる人種なので、よくわからなかった。身近で納豆が苦手な人といえば夫だが、まだ奨めていない。やっぱり無理だった、お前は何を言っているんだ、となれば夫婦の関係にひびが入りかねない。人生の伴侶を失ってまで納豆人口を増やしたいわけではないのだ。


そして物価の優等生との呼び声も高い、卵。いまだに「卵」と「玉子」の違いがよくわからないが、好物である。以下で書くのは鶏卵についてだが、魚卵もたいてい好きである。


いちばん好きな食べ方は卵かけごはん。僅差でサンドイッチの中身(ゆで玉子のマヨネーズあえ)。いや温泉卵も捨てがたい。ラーメン屋やコンビニで食べられる、味つきゆで玉子もおいしい。私の食の好みがほとんど受け継がれなかった息子にも、卵かけごはん好きだけは例外なようで、現時点で鉄板メニューとなっている。息子が卵かけごはんを食べたがらないときは、体調の心配をしてしまう。


かつて卵の摂取上限は一日一個と言われていたようだが、私は一時期顔の良い男性アイドル事務所にお布施しまくっており、そのつながりででんぐり返しを1,800回以上おこなった某大女優が一日あたり5-6個の卵を摂取していることを知っていたので、あまり気にせず食べていた。むしろ大女優の長寿の秘訣はそれだと思っていた。だいたい一日一個だなんて切なすぎる。


とくに生卵が好きなので、元国民的アイドルグループの番組の一コーナー「エッグポーカー」で、負けた側が罰ゲームとして生卵を飲み干す(アイドルは3個、ゲストは1個)のが納得いかなかった。味がまったくないのはちょっと飽きるかもしれないが、醤油を入れてOKルールだったと記憶しているので、ご褒美でしかないじゃないか、と憤慨していた。


それはさておき、こんな私ががんばって卵と納豆を摂取しても、まだあすけん姉さんのお眼鏡にかなわないのである。健康長寿のため、卵は一日あたり5-6個摂取すべきなのかもしれない。

ゆるくあすけんに挑戦したら、ほんの少しだけど減量できた

レコーディングダイエットアプリ「あすけん」を続けて約4ヶ月が経つ。(始めたときの記事はこちら

結果は、4ヶ月で1.5kg減だった。

めざましい結果だとは言えないが、年齢的に代謝量が暴落しているであろう自分としては、増えないだけでも御の字である。


今回は、あすけんとの4ヶ月の付き合いについて書く。


あすけんは希望する減量ペースが選択できる。私は最初、1kg減量/月を選んでいた。しかし思うところがあり、途中から2kg減量/月に変更した。思うところ=意欲が高まったというわけではない。


減量ペースによって摂取カロリーが変わるのは当然だ。あすけんは摂取カロリーの目標が設けられているが、厳密にそのカロリーを守らなければあすけん姉さんに処されるというわけではない。むしろ上下に猶予があり、少しくらい(推定200kcal?)なら超えてもOKである。あすけん姉さんにも叱られない。

少しくらいなら、毎日超えてもOKである。


いやダメだろう。


というわけでカロリー判定をもう少し厳しくするため、月あたりの減量目標を増やしたのであった。

ちなみに運動はしないで食事制限100%、という設定である。ほかに「運動も食事制限もバランス良くする」「運動メインでダイエット」などがある。私はとにかく運動をしたくないので、食事制限だけでまだまだ悪あがく所存だ。


また、途中から課金もした。300円/月で課金をおこない、糖質制限コースに変更した。私は根菜が比較的好きなので、これまで糖質制限はやる気になれなかった。が、あすけんの「ゆる糖質制限コース」という名称にまんまと乗せられてしまった。主食はもともとさほど摂っていなかったため、制限してもそれほど苦にならないかな、という目論見もあった。


今のところ、課金した甲斐があったかと問われれば正直、それほどでもない。ただ、まだなんとか看過しうる金額なので、もう少し続けてみようと思っている。課金のおかげで、自分用のメニューの設定が可能になり、糖質含む一食ごとの栄養素が確認できるのは便利だと感じている。


毎回の食事について記録するのは、覚悟していたほど苦にはならなかった。厳密につけるとおそらく続かないので、だいたい記録できていればいっか、くらいのスタンスである。おかずのひとつふたつみっつくらいはきっと抜けている。また、一日分をあとから一気につけることもあるが、記録が完全に飛んだ食事は今のところないはず。いちおう正直につけて、あすけん姉さんに叱られている。飲み会の日はなんか悲鳴を上げられた気がする。けど、あすけん姉さんは酒に厳しい(2杯飲んだだけで飲みすぎとか言ってくる)という印象なので、そこはスルーしている。


あすけん前は高カロリー食品が好きなあまり、カロリーのことをあえて頭から追い出していた。けれど記録することで、カロリーオーバーの日が続くとさすがに反省するようになった。

また、あすけん前は少しでも節制したらそれを高く見積もりすぎ、かえって自分に甘くなっていたように思う。「先日のお昼はちょっとあっさりしたもの食べたんだから、これくらいいいよね」と言ってその後一週間カロリーオーバーし続ける、といった具合だ。これも記録することで、自分がどれくらい節制したか、その後どれくらいならカロリーオーバーしても大丈夫か、ということが確認できる。目に見えることはデータとしてもモチベーションとしても大事だなあ、と痛感した次第である。

そういった意識が減量につながったのだろう。


…と思いたいのだが、近ごろ週2、3回ペースで夜間の資格講座に通っているせいで夕食を食べる時間がない。たいていトマトジュースで済ませている。好物のビールもお預けで、強制休肝日にもなっている。

この肝臓にとっては健康的な生活が、減量結果なのかもしれない、とひそかにおびえている。もうすぐ講座通いが終わる。リバウンドこわい。

メールカウンセリングを受けてみたら良かった話~受けてみた編

前回、目星をつけた相談所にメールを送ってみたところまで書いた。

合わなそうだったら別の相談所にしよう、と思いながら。


そのとき送ったメールは、精神的に混乱と困惑の極みだったため、ひどいものだったと思う。

あまりにぶしつけなものを送った気がして、怖くて読み返せていない。人様に読ませるような文章ではなかったことだけは記憶している。


それでもちゃんと返信は来た。さすがプロだ。

お試し期間を終え、続けていけそうだったので課金することにした。


もちろん、相談してすべてが100点満点というわけではなかった。

たとえば、誤字がちらほらあることは少し気になったけれど、それを無視して余りあるメリットを享受できた。


その相談所をメリットに感じたのは以下5点。


  1. 行動療法などを勧められなかったこと(有効な対処法なのだろうとは思うが、どうにも苦手なのである)
  2. どうしても見栄が出てしまい、取り繕ったようなメールになってしまったが、そこを突っ込まれなかったこと(取り繕っていることはばれていたと思う)
  3. 私が偏った考え方をしていることに関して、「こういう考え方もある」と抵抗を感じないような提案方法をしてもらったこと
  4. 人によってデメリットとしてとらえるかもしれないが、「こうしなさい」と解決策や考えを示すわけではなかったこと(私にとってはありがたかった)
  5. 字数を数えていたわけではないが、けっこう長めなメールを送っても大丈夫だったこと(誤解を減らしたくて、つい長文になってしまう癖がある)


あとは対面とメールカウンセリングのメリット・デメリットの記事で述べたとおり、外出しなくて良いとか、自分のペースでメールを書けば良い、ということももちろんメリットだった。

夫の多忙のため、自分の外出の余地がさらになくなったという事情もあり、事前に思い描いていた以上にメリットに感じた。


私は、1週間に1往復のペースで10ヶ月近くメールカウンセリングを受けた。

1ヶ月に1回の飲み代くらいの金額だったので、そんなに高いとは感じなかった。むしろ独身時代は飲み代にもっと費やしていた、というのは別の話だが。


自分の悩みがそれほど深いものじゃなかったとは思う。それでも自分ひとりではどうにもならなくて悶々としていたので、それを解きほぐす助けをしてもらえて本当に良かった。

たとえば、四半世紀ほど引っかかっていた気持ちが2ヶ月ほどで解きほぐされ、着地点を見つけられたのは驚いた。


これまで誰にも言えなかったことも受け止めてもらった。

私は口下手だけれど、書くことはさほど苦にならないので、文章にすることで自分の考えの整理ができた。

悪いことも良いことも楽しかったこともつらかったことも、なんでも受け止めてもらえた。友人に言ったら引かれるだろうとか、家族に言ったら喧嘩になるだろうとか思うようなことも、たくさん。

先生も失敗談などを聞かせてくれた。なにも失敗しない、神様のような存在じゃないのも良かった。


カウンセラーの先生と私の相性が良かったのかどうかはわからない。相手がプロだから合わせてくれた可能性は充分にある。

けれど欲しい言葉や同意をもらえて、私は嬉しかったのだ。もらったメールを読んで、何度も泣いた。

先生からすれば、もっと耳の痛いことを書けたとは思う。だが先生はそれをせず、ずっと優しく寄り添ってくれた。それがとてもありがたかった。

先生という合いの手があったことで、自分一人で模索するよりすんなりと着地点を見つけられたと思う。


実は私の性格傾向として、過去の犯人探しをして満足してしまう危険性はあった。

しかし、そうはならなかった。自分でも驚いたのだが、原因を踏まえた上で「それならどうすれば良いか」という方向に発展していけた。おそらくプロの尽力のおかげだ。


メールカウンセリングがひと段落して、私は生きるのが少し楽になった。とくに精神状態が安定しているときは安定したままでいられるし、安定している時間も以前よりは長くなった。


私にとって、何を言っても優しい言葉や欲しかった言葉をかけてもらえる、という経験はとても貴重でありがたかった。たとえそれが課金の結果だとしても。また相手がプロになるための勉強や続けている研鑽を考えると、むしろ自分が出した金額では少なかったかもしれないとも思う。


これまでのメールは取ってあるので、またなにかあったらそれを読み返そうと思っている。お守りみたいなものだ。

そのお守りが、安心感がないとなかなか歩けない自分には心強いものとなった。これからを生きるための、新しいよりどころのひとつをもらったと思っている。

メールカウンセリングを受けてみたら良かった話〜相談相手を選ぶ編

そのとき私は、精神的にとても行き詰まっていた。

頭の中はまとまっていないけれど、誰かに話を聞いて欲しいと思った。


しかし、私の周囲には「無料で愚痴を聞かせるな」「愚痴は笑い話にしなければいけない」という意見の支持者が多いように見えた。

ただ私には、笑い話にするような余裕がなかった。そのため「飲み代を負担して友人に聞いてもらおうか」とかなり本気で考えていた。

…が、飲み代を負担するお金があるならプロに相談してみたら良いのではないか、と思いついた。


これが、カウンセリングを考えたきっかけである。


だいぶ前、私は軽いうつ病をわずらい、対面カウンセリングを受けてなんとか社会復帰をした、という経験があった。

対面カウンセリングは、悪くはなかった。社会復帰までこぎつけられたのは、まちがいなく対面カウンセリングのおかげである。

ただ以前も書いたが、対面カウンセリングを卒業したあと、精神的にまだ問題が残っていることはわかっていた。

正確には、問題が残っているというより、根本的には解決していない感じだった。けれど対症療法的に対応し、外で働けるようになった=せっぱ詰まった状況というほどではなくなったので、いったん社会復帰に集中することにしたのであった。

そのうち落ち着いたら、問題を根本的に解きほぐせたら良いな、くらいに考えていた。

根本的には解決していないとはいえ、緊急度・深刻さともに、さほど大きな問題ではなかった。


ある日ネットサーフィンをしていた折、メールカウンセリングの存在を知った。

私に向いている気がして、興味を持って調べているうちに、「いざとなったらここに相談してみようかな」と思うような相談所を見つけ、HPアドレスをメモしておいた。


やがて実際に「いざ」が来たのである。冒頭で書いた、精神的にとても行き詰まったときだ。

忙しさにかまけて放置していた問題が、もつれた毛糸玉のようになっていた。

自分ではどこから手をつけて良いかわからず、誰かに助けを求めたい、と思った。

そこでカウンセリングにお世話になることを思いついたのだが、今回は対面カウンセリングを選択肢として考えにくかった。

金額的な負担が大きいこと、当時お世話になったカウンセラーの先生がすでに退職していること、仕事や育児で時間が取れなそうなこと、などの理由だ。


そこで、メールカウンセリングのHPをメモしておいたことを思い出した。

あらためてそのHPを見てみて、やはり良さそうだとは思ったが、いちおう他の相談所も調べてみた。

私は自分の選球眼や直感にはまったく自信がないのだ。GS美神で横島が「世の中に自分ほど信じられないものがあるか!」と言ってた気がするが、あのときはめちゃくちゃ共感した。


けれど今回は問題が問題なだけに、自分の感覚で選ぶしかなかった。

直接顔を合わせるわけではないけれど、相談相手にはこうあって欲しい、とか(年齢や性別など)、料金システムとか、自分に向いてそうな条件を考えた。


たとえば無料の相談所もあったが、そこは選ばなかった。

書くことが苦手ではないとはいえ、無料だと「いつメールを出しても同じだ」と思ってしまいそうだから、あえて自分を追い込むことにしたのだ。

また無料だと、相談内容を秘密にしてもらえるかが不安だったという理由もある。

もちろん、有料だからといって秘密を守ってもらえるとは限らないし、秘密を守りたければもっと金を払え、という悪質業者に引っかかる可能性もある。が、そこまで警戒する余裕はなかった。


選択肢として迷ったのは、以下の3ヶ所だった。


  1. 複数のカウンセラーが所属していて、相性が合わなければ指名替えできる相談所。1通いくらの料金システム
  2. 「料金のために相談を引き伸ばすことなく、ちゃんと解決する」と明言している男性カウンセラー
  3. 最初にブクマしたHPの女性カウンセラー


1は、カウンセラーが複数所属しているというのは魅力に感じた。

ただ、1通いくらという料金システムだと、節約したい気持ちが顔を出して、メール頻度が落ちるかもと思ったので、優先順位が落ちた。


2の男性カウンセラーの相談所は、具体的には説明できないのだが、いろいろな点において明言されていて、なんとなく信用できそうだと感じた。身元もプロのカウンセラーのようだった。

私が相談したい内容に、女性特有の体調のことや育児のことがあったので、できれば同性のカウンセラーが良いかな、と考えていた。が、プロのカウンセラーだったら、異性だから問題をまったくわかってもらえない、ということはないだろうとも思ったので、性別の件はいったん保留にした。


3の最初にブクマした相談所は、カウンセラーの経歴や所属団体は書いてあったが、素人にはぐぐったところでその所属団体がどれくらいすごいのか、よくわからなかった。またHPに付属していたブログの更新日付がけっこう過去で、今も相談を受け付けているのか不明だという点でも少し不安があった。


ただ3のHPに相談事例として載っていたのが、私が「まさにそうして解きほぐして欲しい」と望んでいるアプローチだった。

結局それが決め手となって、いちばん最初にブクマした相談所にメールを送ってみた。

そこも他の有料相談所も、ほとんどが無料お試し期間を設けていたので、ありがたかった。

合わなそうだったら別の相談所にしよう、と考えていた。


つづく。→つづきはこちら

果物が苦手、というマイノリティの意見表明

今日は「私はほとんどの果物が苦手である」という主張をしたい。

さらに「果汁を酒に混ぜるのはかまわない」とか「果実はいやだが香りは好き」などという面倒な例外も言い出す予定だ。


果物が好きな人をどうこう言うつもりはない。

が、果物が苦手な人は圧倒的少数であり、どうやら果物好きは市民権を得ているようだ。

そして果物は万人に喜ばれる贈り物だ、という価値観が大多数らしい。

そのために困ることも多いので、そうではない人間もいる、ということをひっそりと記しておきたい。


さて、私が果物を苦手と感じる部分は「剥くのが面倒」「食べるのが面倒」「すっぱい」の3点である。


  1. 剥くのが面倒
    バナナとかミカンとか手で剥けるものはまだ良い。
    けれど、わざわざ包丁を使わなきゃならない果物は爆発的に面倒くさい。もともと料理が苦手なので包丁使いもおぼつかない。
    ピーラーはまだましなのだが、それでも好きでもない果物を剥くのは、とても高い心理的ハードルを超える必要がある。

  2. 食べるのが面倒
    食べることに没頭したいのに、種が出てくると現実に引き戻される。非常に心外なのだ。

    もっともそれを感じるのはスイカである。
    甘くて濃厚なスイカはおいしいと思うが、種がある。種がないスイカは、どうも水っぽい印象がある。
    でもスイカを決して愛してはいない私に、スイカのほうだってあれこれ言われたくないと思うし、言う権利もないと思う。言ったけど。

    最初から種を取り除けるメロンなら良いかというわけでもない。
    メロンの種を取り除くことは可能ではあるが、なんかくっついてて取りづらい。
    そして、いざ食べるとなると皮のどのあたりまで迫って良いのかわからない。その食べ方で育ちが出るという恐ろしい話も聞く。メロントラップ。
    メロンは独立宣言とともに首相官邸に持参するくらいでちょうど良いのである。

    ビワは種が大きく、最初から取り除きやすいといえばそうなのだが、果実が薄くて味もなんだか漠然としている。種だけの主張が激しい。
    そのため、あの抽象的なオレンジ色を食すために、あのでかい焦げ茶色の自己顕示欲の固まり(たまにワタとかある)を取り除くという労力が、割に合わないと感じてしまう。

    その点、種なし&皮まで食べられるブドウの存在を知ったときは感動した。だからって積極的に食べるわけではないのだが、食べざるを得ないときには開発者の方々に非常に感謝しながらいただいている。いつもじゃないけど本当にありがとうございます。

  3. すっぱい
    果物が好きな人は「これはぜんぜんすっぱくなくて甘いよ」と言ってすすめてくれるのだが、それが本当に甘かったことは体感で2割に満たない。

    果物の酸味が苦手なのだ。
    酢の物はある程度平気だが、それでも酸味が強すぎるとしんどい。実家で使っていたお酢が甘めで好みで、このお酢を使った酢の物は好きだったが、製造中止の憂き目に遭ってしまった。

    お酢のことはさておき、果物である。
    果物の中でも比較的食べられる(もちろん自分で皮を剥いてまでは食べないが)ものが、柿・梨・桃である。酸味が少なめなラインナップ。
    当然、柑橘類はほぼ全滅だ。本当にめちゃくちゃ甘いミカンはありがたく食べるが、かなり分の悪い博打になってしまう。

    ただ、ここで面倒なことを追記すると、果汁100パーセントのジュースはわりと好きである。
    とくにグレープフルーツジュースは二日酔いの友であり、一方的に親しくさせてもらっている。
    生ジュースを作るならいざ知らず、ジュースは手軽に摂取できるのも良い。

    レモンサワーなど、酒を柑橘系で割った飲み物もけっこう好きである。むしろ酒に入る果汁は甘くないものが望ましい。
    しばらくご無沙汰だが、串八珍のシークワーサーサワーが大好きだった。串八珍に通いつめていたころは毎回、好きすぎて飲みすぎて二日酔いになっていたものだ。

    余談ながら柑橘の香りは大好きで、ボディソープやハンドクリーム、香水などは柑橘系一択だ。が、香りは柑橘過激派すぎて、「柑橘の香り」というふれこみのハンドクリームで「コレジャナイ」と感じることも多々ある。

多少の例外はあるものの、おもに上記3点の理由で、私は果物(実物)を敬遠している。

そして世の中では果物は「もらうと嬉しい物」としてとらえられていることが多く、厚意1000パーセントですすめられることも多い。


以前いた職場で、生活感のない美魔女がいた。

ヘビースモーカーで、社内でランチを食べているところも見たことがなく、偏見かもしれないが家庭的なこととはあまり縁がないような印象だった。

そんな彼女がある日、給湯室でなにやら四苦八苦していた。どうやら取引先が巨峰をくれたらしい。

職場には皿などがなかったので、紙コップに巨峰を分けて、フロアの女子スタッフ一人ひとりに配ってくれたのだ。

私も受け取った。そこまでしてもらって断るわけにも譲るわけにもいかず、がんばって食べた。ある意味、拷問だった。


お互い、不幸な事故だった。


実は美魔女がとても家庭的で、巨峰を分ける作業を楽しんでいた可能性も3ミクロンくらいはあるのだが、私はやはり不幸な事故だったと思っている。


また、菓子などに果物がふんだんに使われることも閉口する。

フルーツパフェとチョコパフェだったらチョコパフェ一択で、ケーキも果物を使ったものは選択肢からすみやかに消える。

チョコレートパフェに入っていても許せる果物はバナナだけである。入っていなくてももちろん生きていける。

それなのに世間では、菓子などに果物が入っているだけでありがたみが増すような風潮がある。

いや、チョコパフェにバナナが入っていてありがたがられるかと問われれば、不分明だが。


弟の誕生日に食べるショートケーキのイチゴは、プレゼント代わりに弟にあげていた。せっかくの甘いお菓子なのに、異物が入っているとしか思えないのだ。

ショートケーキのイチゴを自分で片付けなければならない羽目になったときは、上から中からイチゴをぜんぶ出し、最初に飲み込む。クリームやスポンジのあとにイチゴを食べるとすっぱいからだ。拷問である。イチゴ狩りなんて一生縁のないレジャーだと思う。

おそらく、酢豚のパイナップルを蛇蝎のごとくきらう人と同じような感覚だと思う。ただ酢豚のパイナップルは、私はそんなに気にならないのだが。濃いソースに紛れるからかもしれない。


さて、果物にまつわる恨みつらみをさんざん書きつらねてきたが、実は果物を少しだけ克服した。


つわり時期に、果物しか食べられなくなったのである。そして生まれた息子は、途方もなく果物好きだった。

酸味もへっちゃら、今年の冬はみかんを食べすぎて手足が黄色かった。

小児科の先生に「手足が黄色いのは問題ないよ!」と言われたが、「実は一食あたり5個食べることも…」と白状すると「うーん、ちょっと控えようか」と苦笑されてしまった。

イチゴ狩りも近いうちにきっと行くことになるだろう。諦めの境地に至りつつある。


夫の実家から大型柑橘類が送られてくることも多いが、息子が着々と消化してくれる。私が食べずとも、ほぼ食べきってくれるのでありがたい。

貝印様の画期的商品、夏みかんカッターのおかげで、剥くのもさほど苦痛ではなくなってきた。その後しばらく手が柑橘の良い香りに包まれるのが、嬉しい副産物だ。

貝印様ありがとうございます。


果物ぎらいの数少ない同志を求めてたどりついた方がいらっしゃったら、裏切られたと思うかもしれない。

だが安心して欲しい。少し克服したとはいえ、依然として果物は苦手である。好んでは食べないし、自分のためには剥かない。


果物が苦手だと、他人の善意を無下にしている気分になることが多くて、申し訳なくなる。

だが、果物が好きな人が多いということは、譲り先にはあまり困らないということである。

というわけで、剥ききれないほど果物をもらったときは、積極的に譲っていこうと思う。