匙を投げたいけど

匙を投げたいけど

面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

自分と子どもは別の個体だと忘れずにいたい

うちの息子は、私とはかけ離れた食の趣味をしている。



いくつか例を挙げると、私は白いご飯が苦手で、ふりかけなどがないと食べるのがわりと苦痛。だが息子は、白飯でももりもり食べる。
私は果物が苦手で、とくに酸っぱいものは食べたくない。が、息子は果物が好きで、とくに酸味のあるものが好き。酸っぱい大きな柑橘は、ほぼ一人で食べきる。義実家からよく柑橘が送られてくるが、もて余すことがない。
私は乳製品全般が好きだが、息子は乳製品に熱心ではなく、とくに生クリームを食べようとしない。ショートケーキのイチゴに生クリームがついているのを見て、泣きそうになっていたくらいだ。私は生クリームにイチゴが接しているのを見て泣きそうになるのに。
私はジャムはあまり好きではなく、とくにいちごジャムが苦手。一方、息子はすべての食べ物の中でいちごジャムがいちばん好きだ。おそらく名雪さんとタメ張るくらいには好きだ。病院でもらう粉薬も、いちごジャムに混ぜれば抵抗なく食べてくれるので重宝している。



私と息子は性格もかなり違う。趣味もけっこう違う。ときどき「本当に自分の腹から産まれた生物なのだろうか」と思ってしまうけれど、その考え自体が間違っていることはわかる。考えが似ていると思い込めば、摩擦も調整も不要だが、わが子は自分と違う存在だし、所有物でもない。脳が怠けがちな私は、それをことあるごとに自分に言い聞かせなければ、と思う。



自分と違う考え方を本気で快く思えるなら、それに越したことはない。けれど、残念ながら自分は狭量なので、とまどいや抵抗が出てくることは疑わない。



たとえば今、息子が「ユーチューバーで食って行きたい」と言ったら、笑顔で応援できる自信がない。ユーチューバーは例であり、自分の子が成人前後になるころには、私にはますます理解しがたい職業が出てきて、わが子がそれをしたいと言い出す可能性もある。わが子のそういった希望を容認できるか、自信がない。運動神経が発達しているとはいえないのに、プロ運動選手になりたいとか言われても、手放しで応援できるかどうかと問われると難しい。子どもの適性の有無だけではない。職業に貴賤はない、と頭では思いつつも、とまどいを隠せないだろう。



けれど「とまどいや抵抗がある」と自覚しているだけで、子どもに対する態度は変わってくると思う。
表面上「子どもには好きなようにやらせている」と言いながら、自分でもそう思い込んでいるよりは、とまどいや抵抗を自覚しているほうが自分にも子どもにも良いと思っている。思うこと自体を禁じるのはしんどい。それより、偽善だと思われようとも、思ってしまったことを口に出さない・表に出さないほうがましだと私は信じる。



ところで、育児についてはバルーン・タウン(とある推理小説内の架空の都市。妊婦ばかりが暮らしている)みたいなとこで育てたほうがストレスが少なくて済むのではないか、と思ってしまうことはある。男女が家族という集団を作るのは、まったく違う行動を取る生物が同じ集団にいるほうが危機的状況にあるときに生き延びられる可能性が高まるからだと聞いたが…果たして。今のところ、危機的状況より日常的に感じるストレスのほうが多く思えてしまう。まあ危機的状況が少ないということで、ありがたい話ではあるのだけれど。



ただ、そんな命にかかわる危機的状況じゃなくても、ショートケーキが供されたときは、息子がイチゴを食べ、クリームは私が食べるという平和的解決をおこなうこともできる。考え方や嗜好が違うことはきっと、悪いことばかりではない。すり合わせやストレスですごく疲れるけど、悪いことばかりではないことも忘れずにいたい。