匙を投げたいけど

匙を投げたいけど

面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

お墨付きが欲しい

前回、「ACの対面セラピーを受けたが、合わなかったようだ」という記事を書いた。そのセラピーが合わなかったと感じた理由のひとつで「ACかどうかの診断が欲しかったが、確信が得られなかったこと」と書いたが、今回はそのへんを掘り下げて書きたい。



私はどうも、最初から綺麗に積み重ねなられていて、なおかつわかりやすいものでないと、受け付けられない性質がある。典型的な白黒思考なのだ。0か100しかない。



おそらく、もともとそういう性格だったところに、並外れた怠け者である脳が拍車をかけた。私はかれこれ20年ほど、脳を使いたくないという欲望に負け続けてきた。当然ながら、複雑なことを理解する能力も、理解しようと挑戦する体力気力も、すっかり減退してしまった。



小説や漫画でも、1巻や1話を見逃すともう見られない。図書館などで借りようとした本の途中巻が抜けていたら、もうその先は読めない。損な性分かもしれないが、気になることを解決しないまま進めるのがとても抵抗がある。気になるアニメやドラマも1話を見逃してそのまま見ていない、という作品がかなり多い。「ここが抜けている」ということを頭に置いたまま先を読んだり補完するのが苦手なのだと思う。脳をアイドリングするのがいやなのだ。



そういう性分なので、ACだという確信が欲しかった。その認定があれば、そこで初めてその治療(?)を受ける権利がある、と安心できる気がした。そこがぐらぐらしているとおそらく、その先の治療やうまくいかないことが起こったときに「やっぱり自分はACじゃないからか…」と余計なことに引っかかって、そこから進めなくなる自信があった。だから前提をしっかりしたかったのだ。



ただ「よくわからないまま進めていって、あとから『こういうことだったのか!』とわかる」というパターンも存在することも知っている。
たとえば、つるかめ算を習ったときはまったくわからなかったが、連立方程式を習得したあとは難なく解けるようになった。つるかめ算を習得することの意義はさておく。そしてつるかめ算の問題を小学生が連立方程式で解くと不正解にされる可能性が高いので、この手段は使えないのだが。正解だけを書く問題ならともかく、途中式を書く問題だったら確実にアウトだ。



…やはりつるかめ算の意義はわからないままだが、鶴と亀の脚の数はさておき。



ACかどうかの確信をさておいて治療に向かえば、不器用じゃなくなる(ACっぽい特徴から脱却できる)のだろうか。それは「ACということを認めなかったからACではなくなった」という意味になるのではないだろうか。



それとも、ACっぽい症状を克服できれば、途中経過が気にならなくなるのだろうか。途中経過が気にならなくなったら、ACが克服できたといえるのだろうか。タマゴとニワトリ、どちらが先なのか。生きやすくなれる日は来るのだろうか。



たぶん、やみくもにお墨付きを欲しがること自体が、心が不健康であることの証なのだろう。お墨付きがなくても動けるようになったとき、ACを克服したと言えるのだろう。