匙を投げたいけど

匙を投げたいけど

面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

音楽センスの問われる絵本が苦手

絵本を読むのはきらいではない。むしろ子供と接する中で、ほぼ唯一の苦痛にならない遊び(?)かもしれない。しかし最近、自分に絵本の得手不得手が出てきて、自分が読むのが苦手な本を持ってこられると困るようになった。



苦手な本=絵が好みじゃないもの、という意見はたぶん同意を得やすいと思う。ただ、絵が好きになれない程度だったらまだ我慢して読める。読むのも苦痛になるくらいの絵本とは、適当な歌の入る話だ。あまり読み聞かせに慣れていなかった私は、最初は律儀に適当な作曲をして歌っていたが、どうにもセンスがないし恥ずかしくてダメだった。私は作曲家になれない。正解がわからないと歌えないのだ。



その絵本のオリジナルの歌が出てくる話も苦手だが、オリジナルじゃないもの(知らない地方の童謡とか)が出てくるのはもっと苦手だ。オリジナルではない=正解があるということである。人並みに受験戦争を経験してきた人間には、正解があるものをまったく知らないままに読むのは勇気がいるのだ。ただでさえ育児で心が弱っており、つねにジャッジされるような視線にさらされている身に、酷ではないか。



そこで苦手な絵本は、正解を知れば少しはましになるかもしれないと考えた。仕事などで苦手な作業でも、コツや正解がわかると楽になった経験があるからだ。というわけで、もっとも苦手な絵本の読み方の動画を探した。すると作者さん自らが動画を上げているものを見つけた。その絵本の執筆秘話まで含まれた長…もとい、見ごたえのある動画だった。読み方の正解だけを求める身としては、冗ちょ…いや見ごたえがあった。最後まで見たところ「オリジナルの文章も入っているので毎回違ってもいいですよ」という寛大なコメントもあった。ありがとうございます。でもこっちはそれがいやなんです。



たぶん私が絵本に造詣が深くないので、こんな不勉強なことを言っているのだと思う。絵本作家さんや、読み聞かせの勉強をしている方やボランティアをなさっている方には頭が下がる。が、私自身は「絵本を読むのはいやではない」程度で、勉強してなんとかしたいと思うほどではないのだ。



動画を見ても、もっとも苦手な絵本はたぶん苦手なままだということがわかった。まあ、これもひとつの収穫である。そして苦肉の策で、他に歌が出てくる絵本は可能な限り棒読みで押し通すことにした。これで、避けたい絵本が少しでも減れば御の字だ。



ところでオリジナルの節回しのような文章にも関わらず、私が喜んで読む絵本がある。『ぺんぺんいちざ』という絵本だ。歌う必要はないが、講談を読むように勢いよく言いたくなる。Eテレの朝番組「シャキーン」のイラストレーターさんが絵を描かれているため、シャキーンをわりと見ている我が家にもなじみやすい。声に出して読みたい絵本ってこういうものかな、と思う。読んでいて気持ちいいし、毎日でも読める。息子はたまにしか持ってこないんだけど。音楽性の違いを感じているのだろうか。

童話から間違った教訓を得たかもしれない

グリム童話に「まっしろ白鳥」という話がある。自分が読んだ本では「ぼろっくずの鳥」というタイトルがつけられていたので、あらすじを探すのに苦労したが、どうやら「まっしろ白鳥」のほうがメジャーなタイトルらしい。あらすじは、おそらくWikipediaのほうがわかりやすいし全体が載っているが、ここで前半だけでも要約してみる。



ある家の三姉妹が上から順に、物乞いに扮した悪い魔法使いの男にさらわれた。上二人が帰ってこないまま末娘もさらわれる。さらわれた先はわりと豪華な屋敷で、末娘は魔法使いから卵を渡される。魔法使いは「この卵は肌身離さず持っているように。数日留守にするから、この屋敷のどこを見て回っても良いが、一室だけ入ってはいけない部屋がある。その部屋に入らないという約束が守れれば、結婚して豪華な生活をさせてやろう」みたいなことを末娘に告げる。豪華な生活くらいで誘拐犯と結婚を選択するだろうかという疑問はさておく。



末娘は卵を箱に大切に保管し、禁断の一室にも入ってみると、姉たちや他の女性がバラバラに切り刻まれて大きなたらいの中に浮かんでいた。姉たちの身体をきちんと並べると生き返ったので、末娘は姉をかくまい、魔法使いの帰りを待つ。帰宅した魔法使いが末娘に卵を出させると、卵はしみひとつなく綺麗だったので魔法使いは非常に喜び、末娘との結婚を決める。ちなみに他の娘は禁断の一室に入ったときに驚いて卵を取り落とし、血の染みが消えずに入室がバレて殺されている。



というのが前半である。このあとなんやかんやで魔法使いは屋敷もろとも焼き殺される。



幼心にこの話を読んで、最後は安心するものの、怖かった記憶がある。読んだ絵本の挿絵のタッチが私にとって怖かった、というのもある。これを読んで、自分はこの末娘のように賢くはないから、もしこういう目に遭ったら屋敷内を見て回ることなく、卵だけを抱えてじっとしていよう、と心に決めた。とにかく行動さえしなければ、少なくとも殺されずに済むのではないか、と思った。自分が良い結果につながる行動を選択できる自信がなかったので、何もしなければそれ以上は悪化しないはず、という教訓を得たのである。その教訓は、のちのちの自分の人生にも影響した。とにかく怖い目に遭いたくない一心だった。



こうして、自分の人生の行動(しない)指針に影響を及ぼした教訓だったが、その話から得たということは忘れていた。最近、わけもなくその話を思い出した。そしてもしかして自分が得た教訓は間違っていたかもしれないと思った。



行動をしなければ、自分の命だけは守れるかもしれない。けれどそうとも限らないし、自分の子供や後進のためには失敗例だとしても行動することは必要なのだ。失敗例の蓄積にもなるし、場合によっては失敗例のほうが役に立つことだってある。もちろん「いっそ行動しなきゃよかったのに」ってことだってあるけど、それは失敗例として参考になるかもしれないし、事前によく考えればわかるかもしれない。とにかく、行動がいけないのではなくて、行動の結果の予想を立てたり対処法を考えてから行動すべき、というほうが教訓にふさわしかった気がする。



ところで末娘、バラバラ死体をきちんと並べて生き返らせるとか、度胸ありすぎである。生き返らせるっていうのはちょっとよくわかんないけど、それができるなら末娘のほうが魔法使いを名乗れる気がする。しかもこの話の魔法使い、誘拐するときにしか魔法を使っていなかった気がするし、卵を汚した娘を引きずっていくのも背負いかごも自力だし。魔法の意義とは。

のろまな亀の検証と改善

昔のドラマで、「ドジでのろまな亀」を自称するヒロインがいた。ちゃんと見ていないので、自称だけではなく他人からの評価でもあったかもしれない。他人から言われてるんだとしたらひどい悪口だと思う。



今回は、これと似たようなことを言われ続けてきた私が、心の落としどころを見つけた話を書く。



私は昔行っていた塾で、先生から「人の3倍の時間がかかる」と評されたらしい。良い意味で、だ。先生がうちの母に言ったことだそうなので、まあ悪口ではないのだろう。二者面談で「あの子は人の3倍時間がかかるので、長い目で見ましょう」と言ってくれたらしい。



母はその言葉に感銘を受け、気が楽になったのだろう。その後、事あるごとに「あんたは人の3倍かかるんだから」と言うようになった。だがそれは、私にとっては「お前は鈍くさい」と言われているのと等しく、心のやり場がなかった。確かに私は鈍くさいので、反論の余地がない。しかし、そう言われたくはなかった。私がその言葉についての不満を表明すると「だったら他人の3倍長生きすればいいじゃない、あんたならできるわよ」と非現実的な提案で慰められた。結局ずっと言われ続け、やめてもらうことはあきらめていた。てきぱきしたタイプになれれば根本的な解決になるのだろうが、それが根本的に無理なので、あきらめるしかなかった。



言われることはあきらめたものの、言われて落ち込むことには変わりがない。そこで、心の落としどころを見つけたいと思い、カウンセリングなどでも相談してみた。しかし、「時間がかかる分、深みが出ていたと考えたら?」と言われた。それも確かにひとつの手段なのだろうが、深みなんてないことは自分がよくわかっている。そのため、ずっとモヤモヤを抱えたまま「鈍くさい」という評価に甘んじていた。



先日、脳についてのちょっとした講座を受けた。なかなか成果が出ない人の中には、PDCAサイクルのC(検証)とA(改善)をすっとばしているタイプが多いというのだ。私はまさにこれだ、と思った。「人の3倍時間がかかる」のはこれが理由だったのか、と目の前の霧が晴れる思いだった。



と同時に自分は、ただ「とろい」「むだに時間を費やしてきた」と言われることがつらいのではなく、打つ手がないことをしんどく感じていたのだ、と気づいた。むしろ「むだな時間ではなかった」と自分に思い込ませる手段がなにかないか、とありもしないものを探していることがしんどかったのだ。これまで私の人生は、CとAがないほぼない状態だった。CとAをすっとばしてぐるぐるしている状態でいたことはむだな時間だった、とはっきりわかり、意外なほどすっきりした。そしてこれからはCとAを回してみれば、むだなままではないはずだ。試行錯誤が苦手だったので避けてきたけれど、試行錯誤はやはり必要なのだ。



「人の3倍時間がかかる」と言われるのがいやじゃなくなったわけではないけれど、「CとAをおろそかにしてきた以上、そう言われても仕方ないな」というあきらめには至った。それは精神衛生上、以前よりはるかにましだ。とても気が楽になった。



あとはうちの母が、孫である私の息子(マイペース)に対して「人の3倍時間がかかるお母さんの血を引いてるんだから、仕方ないわよね」と言うので、それに対するフォローを心掛けたいと思う。ただ、うちの息子は人の話を聞かないので、フォローは不要かもしれないが。お願いだから、たまには話を聞いてくれ。

自己肯定感は一日にしてならず

「自己肯定感を高める方法」を検索してこの記事に引っかかった方には申し訳ないのですが、有益なことは書いていません。あくまで個人の備忘録です。しかも「方法を探してみたけどだめだった」という備忘録です。



昨今、耳にすることが多くなってきた「自己肯定感」。国の比較で見ると日本人は高くないらしい。納得の結果だ。私もご多分に漏れず低い。自分のころは、日本での学校生活を送る中で自己肯定感が高くても良いことなんかなかった気がする。よほどの実力があったり、一目置かれるような治外法権的な立場ならともかく、平凡な子はそんなものがあったら「調子に乗っている」と寄ってたかって潰されていた。そんな私でも、小学校に入りたてくらいまでは自己肯定感をそこそこ持っていた。でも日本の学校に適応するために、どんどん削っていったように思う。さらに、学校生活で適応するために自己肯定感を削り、就職活動以降で急激に高めることを要求される、という印象だ。そんなすぐ育つのか。うまくやれる人はこっそり隠し持っていたり、出し入れ自由だったりしてたのだろうか。



自己肯定感が低いと生きにくいらしい。さらに、育児にも悪い影響をおよぼすらしい。生きにくいのは自分がしんどいだけだからあきらめもつくのだが、我が子に悪影響をおよぼすのは避けたい。



そこで、自己肯定感を高めるにはどうしたらいいのか、本やインターネットで調べてみた。結論から言うと、私にはどうにもならなかった。



複数の媒体で「自分を大切にするには自分ができることを認めてあげれば良いのです!」などと簡単そうに書いてあった。けど書いてあるとおりにそれができたら苦労はしないのだ。私は、自分にできることは何もないと思っている。あるとしたら自分が勘違いしている。もしくは、それができるために努力できる環境に恵まれただけだ。つまり、自分の実力でできる・できたことは何ひとつないのである。



「自信を持てば良い」と書いてある媒体もあった。が、それこそが恐ろしいことなのだ。学校生活で、もっとも心を砕いたのもそこだ。自信を持つと調子に乗っていると思われがちだ。自分も、うっかり自信を持って調子に乗るのが怖い。調子に乗って痛い目に遭う逸話や、そうなった人間の存在をたくさん見聞きした。自分で自分を認めたら、自分は必ず身を持ち崩すと思う。自分を信じていない、という意味ならば、私はとてつもなく自信がない。



また、「『自信がある』=『自己肯定感』ではない」という意見もあった。たしかに、自己肯定感というのは、自信がある=何かができるから良いということではなく、「自分は自分で良い」と思えることらしい。難しい。「自分が生きていて良い存在か」ということは、体調が良いときはあまり考えなくて済んでいる。が、体調が悪いとき、とくに生理前は「自分が生きていて良い」という実感がなくなる私にとっては、とてもじゃないが自己肯定感までたどりつける気がしない。死にそうな目に遭ったら、息子の成長を見られないのは惜しいから死にたくないとは思うだろう。が、もっともらしい理由をつけて説得されたら「それなら仕方ないな」と信じてしまいそうだ。もっともらしい理由じゃなくても、「お前が生きていても何もならない」と言われたら、それで「そうか…」とあきらめてしまうだろう。一時期流行したデスゲーム的なものは、そもそも苦手なのでほとんど読まなかったが、読んだときに共感するのは精神的に折れてすぐに自らゲームを下りる登場人物だった。他人を蹴落としてまで何かを手に入れる、というプロセスに非常に抵抗を感じるのだ。



調子に乗ることを恐れるため、自動的に自分を叩きのめすような思考を長年かけて獲得した。それなのにそれを変えるのは、その長年を無駄だと認めることである。それもなかなか難しい。「それが当時の自分が生きるために必要だったけれど、今の自分には必要がなくなったので手放す」という軟着陸ができれば良いのだろうが、今の自分に必要がなくなったという実感が持てないので、難しいのである。



そんなこんなで、自己肯定感は自力ではどうにもなりそうにない、ということはわかった。そのため、そこを重視した有料カウンセリングを受けようと思い立った。それでこの考え方を変えられる日が来たら、それについて書くかもしれない。けれど自己肯定感が育ったらそれで満足してしまい、わざわざ書かないかもしれないとも思う。言葉にして納得しなくても自分を認められるのが自己肯定感らしいから。

あたたかい思いやりを受け取れない

私は筋金入りの猫舌だ。世の中には「猫舌などというものはなく、ただ舌の使い方が下手なだけだ」という説もあるようだが、なんとでも言ってくれ。苦手なものは苦手なのだ。



最近はやっと、冬にあたたかい飲み物(といってもぬるい)を少しは飲むようになったが、昔は冬でも冷たい飲み物しか飲めなかった。インスタントの味噌汁には氷を入れる。インスタントラーメンとインスタントコーンスープには牛乳を入れていた。インスタントラーメンに牛乳を入れる、ということが一般化(?)するはるか昔からやっていたので、「みんなやってなかったの!?」とむしろ驚いたものだ。



それが高じて、熱いものを食べさせようとする人についつい「私に喧嘩を売っているのかな?」と思ってしまう。先方はよかれと思ってやっているのに。たとえば「あたため直すね!」と言われると、心底やめてほしいと思う。だが親切を無為にしている気がするし、困る。たいていは料理の作り手がそれをしてくれるので、「自分の料理はあたたかいうちに食べるのがいちばんおいしい」と思っているのかもしれない。しかしそれをされると私はなかなか料理を食べられず、結局いちばんおいしい状態では食べられないのだ。もはや私にはその料理を食べる資格がないのだ。本当に申し訳ない。そのへんのインスタント食品に牛乳や氷を入れて食べてるので私のことはご放念ください。



ただ、「私は猫舌なのでそのままでお願いします」と言えればいいのかもしれない。しかし相手の「熱いものは親切になるはずだ」という考えを否定しているようで、ためらってしまう。



私が冷めたもの、冷たいものを好むのは、目の前にある食べ物を早く食べたいからだ。早食いはダイエットに良くない。熱いものを食べるときはおのずとゆっくり食べることになる。つまり熱いものを供してくれる人は、私に対して「痩せたら?」という婉曲なメッセージを送っているのかもしれない!



うーん、それなら仕方ない。でも早く食べたい。やっぱりあたたかい思いやりを受け取れていない。

ひとりになりたいときもある

「一人で育児」というのは大変だ。私にはとてもできない。けれど場合によっては「一人」に魅力を感じることを否定できない。



たとえばワンオペは、体力と時間的には大変である。けれどワンオペじゃない場合、自分が忙しくしているときに夫がのんびりしているのが目に入ると、精神力がけっこう削られる。そのため「いっそ仕事などでいないほうが期待しなくて済むかも」と思ってしまうことはある。
※夫の名誉のためにも書いておくが、基本的にうちの夫は私より家事にも育児にも堪能で、普段からかなりやってくれる。恥ずかしながら、私の能力が低すぎてすぐいっぱいいっぱいになっているだけだ。



また、自分がすり合わせなどがとても苦手だ。そのせいで叱り方の方針が違うとか、そういうことを感じても私は言うことができない。子供に申し訳ないとは思っているが、食い違いが怖くて言えないのである。そして夫のほうも私の育児に思うことがあるだろうなと思うので、夫が見ているところで子供に接するのも、緊張することがある。なにか指摘されたら、立ち直るのにとても時間がかかることを自分で知っているからだ。



「一人がいい」の最たるものが公園など、他の子が来るかもしれない場所である。自分と子供のほかに誰もいなければ、これほどいい遊び場はない。子供が怪我しないかどうかだけを見守りつつ、精神的にはのんびりできる。ただ他の子やその保護者が来た途端に、不安で落ち着かなくなる。なにかトラブルが起こるのではないか、と一気に緊張するのだ。



公園に来たのが他の子の場合は、我が子がその子に危害を加えないかハラハラする。おもちゃを取らないかなとか、順番を守れるかなとか。しかしうちの子が先に遊んでいたものを他の子が欲しがったからって無条件に渡してしまうと子供が傷つく。だから大人としてうまいこと調停しなければならないし、精神的負担が大きい。



他の親の場合は、その子に危害を加えないかハラハラすることに加え、こちらの育て方をどう思うかな、などと気にしてしまう。ちゃんとした育児ができている自信がこれっぽっちもないのだ。そしてそもそもコミュニケーション弱者なので、他の親御さんに話しかけたほうがいいのかそうじゃないのか空気が読めないし、あれこれ考えて疲れ果ててしまう。



先日(といってもコロナ前)、話してみたら普通に世間話をしてくれたママさんがいた。が、きっと彼女がすごく合わせてくれていたのだと思う。「このコミュ障が」などと叱られたり嘲笑されたりしなかったので、本当にありがたかった。友人がそうされたら「そうする人のほうがどうかしてる」と思うのだが、自分がされたら「まあ仕方ないよなあ、その通りだし」と感じてしまうし、言い返せないまま落ち込むだけだと思う。



私はこれまでの人生で、自分の身をつねに低く置くこと、自分の意思は度外視することで対処してきた。その場の序列を考える面倒くささから逃げてきたのである。



子供がいなければこの先もそれでなんとかやっていけたかもしれないけれど、そうもいかなくなってきた。自分は度外視できるけれど、自分の子供は私の付属物ではない。我が子を人間として、尊重しなければならないと思う。それでもこれまでの感覚から、つい他人のほうが高い気がしてしまうし、しかし我が子を自分の子だからという理由で低く考えるのも違うし、というジレンマで疲れ果てるのだと思う。



たぶん前提の対処法=自分の意思を度外視すること、が間違っていたのだとは思う。なにか他のやり方もあるはずだ。が、従来のやり方がすっかり染みついてしまっていて、どう修正したらいいのかもうわからないのだ。自分の意思が聞こえない。



当面は、公園では誰も来ないことを祈る。防疫的観点からもそう祈る。ところで防疫的観点から、立ち話をしないほうがいいという風潮(?)になったのは、私のようなタイプにとっての福音かもしれない。

迷走からのゴール、が喜ばしいとは限らない

地味にしんどいことがあった。



在宅勤務になる前、まだランチなどで好きな店に行けたころ。こう書くとなんだか遠い話のような気がするが、そのころ1ヶ月超ほど、孤独のグルメの五郎さんが言うところの「迷い腹」が続いていた。食欲はあるが、何が食べたいのか自分でよくわからない現象だ。



それが地味にしんどかったので、原因や打開策がなにかないのか、とちょっと調べてみた。すると「自分を後回しにしたから」だとか「ダイエットで我慢したから」だとかいう理由が出てきた。理由から打開策から、文章は違うが内容がそっくりすぎる記事があり、どちらがパクリなんだろう…と思ったことはさておく。まあその二つの理由でだいたい合ってるな、と思った。



ダイエットを完全にやめるのは無理だ。もし万が一ダイエットに成功したとしても、そのあと何も考えない食生活を送ると、リバウンドまっしぐらだ。確信がある。



では「自分を後回しにしない」のほうである。ものの本には、「自分を大切にする」「自分を粗末にしない」=自分を後回しにしないためには、小さくてもいいから自分の望みをかなえてあげるのが良い、と書いてあった。しかしそれが本当なのか、私は非常に疑問なのである。



私は外食が好きで、酒が好きで、カロリーの高いものが好きなのだ。食べたいものを食べたいだけ食べていたら、貧乏にもなるし健康も失うこと間違いなしだ。私が読み取れなかっただけで、程度をわきまえることが前提だったのかもしれないが。ダイエットもしんどいが、「程度をわきまえつつ、食べたいものを食べる」というのも、相当の精神力が要求される行為だ。



また、本当に欲しいものを手に入れたらお金に困らなくなったと書く人もいたが、そういう人は食べ物以外のものを欲している気がする。家具とか趣味の道具とか。だって食べ物はいつまで経っても欲がなくならないし、きりがない。



そうこうするうちに在宅勤務が始まった。保育園が休園になった。迷い腹は雲散霧消し、ストレスでカロリーの高い食べ物ならなんでも食べたくなった。しかも手近(家)に食べ物がある。近所の飲食店のテコ入れという口実でテイクアウトのおいしいものを食べる割合も増えた。出勤時のランチはダイエット食を食べることが多かったが、子供が在宅だと同じものを食べたがるので、ダイエット食を食べるわけにもいかない。さらに強制的運動(=通勤)ができない。そんな環境が揃った。4キロ増えた。



派手にしんどい。