匙を投げたいけど

匙を投げたいけど

面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

ひとりになりたいときもある

「一人で育児」というのは大変だ。私にはとてもできない。けれど場合によっては「一人」に魅力を感じることを否定できない。



たとえばワンオペは、体力と時間的には大変である。けれどワンオペじゃない場合、自分が忙しくしているときに夫がのんびりしているのが目に入ると、精神力がけっこう削られる。そのため「いっそ仕事などでいないほうが期待しなくて済むかも」と思ってしまうことはある。
※夫の名誉のためにも書いておくが、基本的にうちの夫は私より家事にも育児にも堪能で、普段からかなりやってくれる。恥ずかしながら、私の能力が低すぎてすぐいっぱいいっぱいになっているだけだ。



また、自分がすり合わせなどがとても苦手だ。そのせいで叱り方の方針が違うとか、そういうことを感じても私は言うことができない。子供に申し訳ないとは思っているが、食い違いが怖くて言えないのである。そして夫のほうも私の育児に思うことがあるだろうなと思うので、夫が見ているところで子供に接するのも、緊張することがある。なにか指摘されたら、立ち直るのにとても時間がかかることを自分で知っているからだ。



「一人がいい」の最たるものが公園など、他の子が来るかもしれない場所である。自分と子供のほかに誰もいなければ、これほどいい遊び場はない。子供が怪我しないかどうかだけを見守りつつ、精神的にはのんびりできる。ただ他の子やその保護者が来た途端に、不安で落ち着かなくなる。なにかトラブルが起こるのではないか、と一気に緊張するのだ。



公園に来たのが他の子の場合は、我が子がその子に危害を加えないかハラハラする。おもちゃを取らないかなとか、順番を守れるかなとか。しかしうちの子が先に遊んでいたものを他の子が欲しがったからって無条件に渡してしまうと子供が傷つく。だから大人としてうまいこと調停しなければならないし、精神的負担が大きい。



他の親の場合は、その子に危害を加えないかハラハラすることに加え、こちらの育て方をどう思うかな、などと気にしてしまう。ちゃんとした育児ができている自信がこれっぽっちもないのだ。そしてそもそもコミュニケーション弱者なので、他の親御さんに話しかけたほうがいいのかそうじゃないのか空気が読めないし、あれこれ考えて疲れ果ててしまう。



先日(といってもコロナ前)、話してみたら普通に世間話をしてくれたママさんがいた。が、きっと彼女がすごく合わせてくれていたのだと思う。「このコミュ障が」などと叱られたり嘲笑されたりしなかったので、本当にありがたかった。友人がそうされたら「そうする人のほうがどうかしてる」と思うのだが、自分がされたら「まあ仕方ないよなあ、その通りだし」と感じてしまうし、言い返せないまま落ち込むだけだと思う。



私はこれまでの人生で、自分の身をつねに低く置くこと、自分の意思は度外視することで対処してきた。その場の序列を考える面倒くささから逃げてきたのである。



子供がいなければこの先もそれでなんとかやっていけたかもしれないけれど、そうもいかなくなってきた。自分は度外視できるけれど、自分の子供は私の付属物ではない。我が子を人間として、尊重しなければならないと思う。それでもこれまでの感覚から、つい他人のほうが高い気がしてしまうし、しかし我が子を自分の子だからという理由で低く考えるのも違うし、というジレンマで疲れ果てるのだと思う。



たぶん前提の対処法=自分の意思を度外視すること、が間違っていたのだとは思う。なにか他のやり方もあるはずだ。が、従来のやり方がすっかり染みついてしまっていて、どう修正したらいいのかもうわからないのだ。自分の意思が聞こえない。



当面は、公園では誰も来ないことを祈る。防疫的観点からもそう祈る。ところで防疫的観点から、立ち話をしないほうがいいという風潮(?)になったのは、私のようなタイプにとっての福音かもしれない。