匙を投げたいけど

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面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

自己肯定感は一日にしてならず

「自己肯定感を高める方法」を検索してこの記事に引っかかった方には申し訳ないのですが、有益なことは書いていません。あくまで個人の備忘録です。しかも「方法を探してみたけどだめだった」という備忘録です。



昨今、耳にすることが多くなってきた「自己肯定感」。国の比較で見ると日本人は高くないらしい。納得の結果だ。私もご多分に漏れず低い。自分のころは、日本での学校生活を送る中で自己肯定感が高くても良いことなんかなかった気がする。よほどの実力があったり、一目置かれるような治外法権的な立場ならともかく、平凡な子はそんなものがあったら「調子に乗っている」と寄ってたかって潰されていた。そんな私でも、小学校に入りたてくらいまでは自己肯定感をそこそこ持っていた。でも日本の学校に適応するために、どんどん削っていったように思う。さらに、学校生活で適応するために自己肯定感を削り、就職活動以降で急激に高めることを要求される、という印象だ。そんなすぐ育つのか。うまくやれる人はこっそり隠し持っていたり、出し入れ自由だったりしてたのだろうか。



自己肯定感が低いと生きにくいらしい。さらに、育児にも悪い影響をおよぼすらしい。生きにくいのは自分がしんどいだけだからあきらめもつくのだが、我が子に悪影響をおよぼすのは避けたい。



そこで、自己肯定感を高めるにはどうしたらいいのか、本やインターネットで調べてみた。結論から言うと、私にはどうにもならなかった。



複数の媒体で「自分を大切にするには自分ができることを認めてあげれば良いのです!」などと簡単そうに書いてあった。けど書いてあるとおりにそれができたら苦労はしないのだ。私は、自分にできることは何もないと思っている。あるとしたら自分が勘違いしている。もしくは、それができるために努力できる環境に恵まれただけだ。つまり、自分の実力でできる・できたことは何ひとつないのである。



「自信を持てば良い」と書いてある媒体もあった。が、それこそが恐ろしいことなのだ。学校生活で、もっとも心を砕いたのもそこだ。自信を持つと調子に乗っていると思われがちだ。自分も、うっかり自信を持って調子に乗るのが怖い。調子に乗って痛い目に遭う逸話や、そうなった人間の存在をたくさん見聞きした。自分で自分を認めたら、自分は必ず身を持ち崩すと思う。自分を信じていない、という意味ならば、私はとてつもなく自信がない。



また、「『自信がある』=『自己肯定感』ではない」という意見もあった。たしかに、自己肯定感というのは、自信がある=何かができるから良いということではなく、「自分は自分で良い」と思えることらしい。難しい。「自分が生きていて良い存在か」ということは、体調が良いときはあまり考えなくて済んでいる。が、体調が悪いとき、とくに生理前は「自分が生きていて良い」という実感がなくなる私にとっては、とてもじゃないが自己肯定感までたどりつける気がしない。死にそうな目に遭ったら、息子の成長を見られないのは惜しいから死にたくないとは思うだろう。が、もっともらしい理由をつけて説得されたら「それなら仕方ないな」と信じてしまいそうだ。もっともらしい理由じゃなくても、「お前が生きていても何もならない」と言われたら、それで「そうか…」とあきらめてしまうだろう。一時期流行したデスゲーム的なものは、そもそも苦手なのでほとんど読まなかったが、読んだときに共感するのは精神的に折れてすぐに自らゲームを下りる登場人物だった。他人を蹴落としてまで何かを手に入れる、というプロセスに非常に抵抗を感じるのだ。



調子に乗ることを恐れるため、自動的に自分を叩きのめすような思考を長年かけて獲得した。それなのにそれを変えるのは、その長年を無駄だと認めることである。それもなかなか難しい。「それが当時の自分が生きるために必要だったけれど、今の自分には必要がなくなったので手放す」という軟着陸ができれば良いのだろうが、今の自分に必要がなくなったという実感が持てないので、難しいのである。



そんなこんなで、自己肯定感は自力ではどうにもなりそうにない、ということはわかった。そのため、そこを重視した有料カウンセリングを受けようと思い立った。それでこの考え方を変えられる日が来たら、それについて書くかもしれない。けれど自己肯定感が育ったらそれで満足してしまい、わざわざ書かないかもしれないとも思う。言葉にして納得しなくても自分を認められるのが自己肯定感らしいから。