匙を投げたいけど

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面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

インナーチャイルドが見つからなかった私へ

いつもお世話になっております。2020年11月の私です。



今日はインナーチャイルドと呼ばれる存在について気づいたことをお伝えしたく、この記事を書きました。



あなたは以前、インナーチャイルドセラピーを受けましたね。そして、向いていなかったと書いていました。インナーチャイルドを扱う一連のセラピーを茶番に感じたんでしたね。掘り下げが足りなくて見つからないのか、自分の中にはインナーチャイルドがいないのか、そもそもインナーチャイルドという存在はいない(気のせい)なのか、とも思っていたんでしたよね。



けれど、普通にいたのです。先日発見しました。なぜそんなことになったのか、説明させてください。



ここのところ、私はまた違うカウンセリングを受けていました。カウンセリングというより、心の仕組みをひも解く個人授業、といったほうが正確かもしれません。とにかくその授業をしばらく受けていたところ、私にやる気が感じられないとのことで、見放されそうになりました。たしかに自分でも「合わないかも」と感じていたところだったため、あまりショックではありませんでした。



ただその授業は、内容は頭では納得できると思っていました。それなのに合わないと感じていたのです。その授業の考え方になんとなく抵抗がある、といいますか。生物には恒常性があるので、変化は基本的に好かないものですが、それだけではない何かがあったように感じました。



その授業への抵抗感についてつらつら考えていたところ突然、インナーチャイルドと呼ばれる存在らしきものに行き当たりました。子供時代の私です。推定年齢、5-7歳くらいでしょうか。それを発見したと同時に、かなりの涙が出てきました。ぶわっと。しばらく泣きました。いま思えば、インナーチャイルドセラピーを受けたときのインナーチャイルドは、今回発見したそれではありませんでした。



セラピーを受けたときは、インナーチャイルドのようなものを呼び出して(降霊のような表現になってしまいましたが、本当にそんな感じでしたよね)、姿を思い描いて呼び名をつけました。けれど、今回実際に発見したそれは、姿はそこそこ当たっていましたが、名前は明らかに違和感がありました。



またインナーチャイルドは「傷ついた子供」とか「かわいそうな子供」などと表現されがちだと思いますが、実際のそれは「かわいそう」ではありませんでした。ただただその時代なりに考えて生きていただけで、いまその姿を思い起こしても「かわいそうな子供だった」とは感じません。



チャイルド私を発見した今だから言います。インナーチャイルドセラピーのとき「茶番だなあ」と感じたあなたの感覚は、間違っていません。実際に茶番でした。もちろん、あのやり方が合っていて、あのセラピーでインナーチャイルドが見つかる人もいると思います。ただ少なくともあなたには合わなかっただけ、という話です。



以上が、インナーチャイルドと思われる存在を発見した顛末です。そしてこのあと、チャイルド私を発見してから考えたことも書かせてください。



すべての原因をインナーチャイルドに求めるわけではありません。が、「自分の意見が古い or 間違っているかもと思っていても、なかなか変えられない」というのは、インナーチャイルド含め、かつての自分が影響しているのではと考えました。具体的には、かつての自分へのねぎらい、慰め、「よしよし」が足りてないせいではないか、と考えたのです。



ここのところのカウンセリングで私が「やる気が感じられない」と見放されそうになったのは、かつての自分への「よしよし」が足りなかったせいだ、ということがわかりました。



こう書くと自分に厳しい人は「自分を甘やかすなんて!」と言うかもしれません。あなたは自分に厳しいわけではないですが、そっち寄りの考え方ですよね。けれど今の私は考えが少し軟化しました。他人に見せるわけではないので、自分の中で「よしよし」は必要だし、やって良いと思います。最近は「自分で自分の機嫌を取れるのが大人」という風潮があり、良い行動だとされていると思います。かつての自分をねぎらうというのは、それと同じカテゴリの行動だと思います。自分を甘やかす「よしよし」は、「あのときの自分は間違っていなかった! 悪いのは周囲で、自分は被害者だった!」という感じの「よしよし」だと思うのですが、伝わりますでしょうか。



かつての自分が誤った行動をしていたなあと感じても、慰めるまではいかなくても「結果的にうまくいかなかったけど、そのときはそれが精いっぱいだったんだもんなあ」程度には認めておく必要があると思います。でなければ、かつての自分がゾンビのように地中から自分の足を引っ張り、改善の一歩へと進めない気がします。ゾンビを成仏させておかないと、その先は進むのが難しいと思います。忘れたころにゾンビが出てきたりもしますし。



たとえば、料理に手をかけるのが愛情と思ってすべて手作りでがんばってきた人が、「クックドゥ」や「うちのごはん」を使う人や商品自体に好意的になれないことと似ているかもしれません。自分に合ったやり方をすれば良いのだから、他人が手抜き料理をしていても、「手作り料理をするのは間違っている」と指摘されているわけではないのです。けれどモヤッとしてしまう。気持ちはわかります。なぜなら、あなたも私もそういうタイプだからです。 ちなみに「クックドゥ」や「うちのごはん」は便利でありがたい派ですよね。



あなたも私も、自分が苦労した部分で他人が苦労していないのを見るとモヤっとしてしまいがちですよね。あなたと私の考え方を平たく言うと「みんな平等に苦労しよう」という表現になると思います。もちろん、そう考えるのは自由です。口に出さなければ良いのだと思います。けれどその考えでいると、この先あまり楽しくなさそうです。口に出さなければ、と思うものの、うっかり口から出てしまい、引かれることもあるかもしれません。できれば考え方を変えたほうが、楽しく暮らせそうです。



その問題を解決するため、かつての自分をねぎらうことは意外と有効なのではないかと思います。万人向けではないかもしれませんが、少なくともあなたは私には有効な気がしませんか? ご検討いただけましたら幸いです。



そうそう、合わないカウンセリングも無駄ではなかった、ということも付け加えておきます。理由はふたつあります。ひとつ目は、カウンセリングの合わない理由を考えたことで、「カウンセリングの自分への向き不向き」が少しずつわかってきたこと。ふたつ目は、カウンセリングの中で納得できた一部分だけでもかじって、自分の糧にできたこと。勉強代(カウンセリング料)はかなりかかりましたが、まったくの無駄ではありませんでした。



そして今また新しいカウンセリングを受けています。今回はあなたや私のようなタイプがかなり納得できそうなメソッドという印象があります。それについても、書けそうだったらまた書きますね。



以上、ご査収いただけましたら幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。



(どうも記事を書くのが遅いので、違う書き方を試してみました)