匙を投げたいけど

匙を投げたいけど

面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

むだぐちを反省した

結婚して愚痴が減った

結婚前と比べ、私は愚痴が減った。



不満がないわけではない。基本的にネガティブなので、愚痴りたいことは無限に湧く。が、結婚・出産後は愚痴を言える相手が激減した。そのため、ため込んでいる量は増えた。体感的にはもう破裂しそうだ。


愚痴を言えなくなった3つの理由

いま愚痴を言おうとすると、ハードルが3つある。

  1. 自分が愚痴を言うのは罰当たりだと思う
  2. 愚痴を聞いてくれる人がいない
  3. 愚痴を言って状況を自覚するのが怖い

の3つだ。


自分が愚痴を言うのは罰当たりだと思う

まず、自分の立場で愚痴を言うのは罰当たりだ、と思ってしまう。



どこかの育児記事で「誰が見ても深刻な状態、というわけではないつらさは吐き出せない」といったものを読んだ。まさにそれだ、と衝撃を受けた。「誰が見ても深刻」というのは、ワンオペが常態だとか実家が遠くて頼れないとかそもそも毒親育ちだとか、そういう状態のことだ。



記事は正確には「深刻な状態の人は少しずつながら援助の手を差し伸べられるようになったが、そこまでではない人にまでは手が回っていない」といった内容だったように記憶している。見失ってしまったので、正確かどうか確認するすべがないのだが。



夫は家事ができるほうだし、とくに料理は私よりはるかに上手い。私の実家は近く、親との関係も悪くない。この贅沢な状態でつらいだなんて、なかなか言いにくい。だが私は並み外れて小物なのである。小物界では大物のはずだ。キャパシティがなさすぎて、些細なことでもつらくなれる。愚痴を言いたい。でも言えない。そんな板挟みで腹ふくるる日々である。ストレスを口実に飲み食いするので、物理的にも腹周りがふくれる。


愚痴を聞いてくれる人がいない

次に、「自分の下手な愚痴を聞いてくれる人がいない」である。



私は愚痴を言うのが下手だ。が、それを自覚したのがつい最近だ。そのため、周囲にかなり迷惑をかけてきたと思う。



結婚前は、愚痴を肴に酒を飲むことが何より好きだった。推しジャンルを肴に酒を飲むより好きだった。オタクの風上にも置けない。
愚痴の内容もまとまっていないし、「愚痴を言って、考えを整理できたところで解決策を」みたいな活かし方も、まったく思い至らなかった。ただひたすら愚痴をたれ流すだけ。
さらに、自分も愚痴を言うし、人にも言わせていた。自分ばかりが言うのは申し訳ないと思っていたからだ。愚痴を言いたくないタイプがいることなど、思いもよらなかった。だから自分の都合ばかりを押し付けて、なおかつ後ろ向きの感情や記憶ばかり引き出すような、どうしようもない人間だった。こんな人間と付き合っても、百害あって一利なしだ。



それが原因で、友人だと思っていた人々を失った。でも今は、無料でまとまらない愚痴を聞かせてしまって申し訳なかったと反省している。失うだけのことをしたのだ。



そして私の周囲に残ったのは、「愚痴は笑い話にして聞かせるべき」という説の支持者ばかりであった。私の悪行を思えば、むしろ周囲に人がいるだけでありがたいのだ。しかし、この風潮にはどうもなじめないのである。



愚痴を笑い話にできる、という姿勢は尊敬に値する。が、私は愚痴を言いたくなった段階で、そこまで考えがまとまっていない。笑い話に昇華するには、けっこうなパワーとセンスが要る。ストレスがたまって弱っている私には、そんな余裕がないし、もともとパワーとセンスに欠ける。



短くもない人生を経て、最近やっと自分のストレスマネジメントを考え始めた。
そして私は、①まとまらないまま話す → ②共感してもらう → ③整理 → ④対処法 という流れならばやっていけそうだ、という結論にたどり着いた。



以前の私は②で止まっていた。もし愚痴を笑い話にするには、少なくとも整理は済ませなければ難しい。ただ整理ができたら、愚痴を聞いてもらいたい欲は激減すると思う。よほど笑い話向きのネタじゃない限り、話すに至らないだろう。



笑い話にできないけれどとにかく聞いて欲しい、と大切な友人が思うならば、私はそれを聞きたいと思う。
などと言いつつ、目的地がよくわからないまま何度も同じことを聞くのはけっこう苦痛になってしまう。「ちょっとまとまらない愚痴なんだけど、整理したいから聞いて欲しい」と言われれば話は別なのだが。結婚前にさんざん自分も同じこと(目的もなく愚痴をたれ流す)をしておいて勝手な言い草だが、素人の自分には「傾聴」が難しい。私は今後、まとまらない愚痴を素人相手に話すなら、そう前置きしようと思う。自戒を込めて。


愚痴を言って状況を自覚するのが怖い

前述のふたつのハードルを乗り越えたところで第三のハードル、「愚痴を言って状況を自覚するのが怖い」が登場する。



いったんいやだと思ってしまうと感情的になり、論理的に考えられなくなる。自覚してしまったとき、継続の方面を考えればなんとかなるかもしれないが、私はなぜか断ち切る方向にしか頭がいかないのだ。



結婚前の愚痴の対象は職場や同人界での人間関係などだった。そういったものは、いざとなったら離れてしまえば済む。
実際、私は断ち切る解決法しかしてこなかった。距離を取って付き合うとか、喧嘩をしても修復するとか、そういった経験値が皆無なのである。が、家庭を持つと、自分の都合で断ち切るわけにはいかない関係が増える。



自覚すると断ち切りたくなってしまうので、見ないふりをすることを選んだ。しっかり突き詰めて、原因を究明して、解決策を考えて、なおかつ解決策がうまくいかなくてもグレーなままでも継続して…という面倒くささよりも、蓋をすることを選んでしまったのだ。
根本的な解決にはなっていないので、当然限界が来る。限界が来ている。


解決策

この3つのハードルを解決できる方法がある。プロのカウンセラーに聞いてもらうことだ。



ちゃんとしたプロなら、「あなたが愚痴を言うなんて贅沢でしょう」などと説教しないだろう。まとまらない愚痴でも聞いてくれるだろう。何ならまとめることを手助けしてくれるだろう。状況を自覚しても、それでもこの先の関係を継続したいのだ、という意向を伝えれば、そちらの方向へと背中を押してくれるだろう。



調べてみたら、有料の愚痴聞きサービスというものはすでに存在するらしい。アプリやAIも開発されつつあるようだ。ちょっとおもしろそうだった。以前お世話になったメールカウンセリングの先生に頼っても良い。私はまだ八方塞がりではない。そう思っただけで、気持ちが少し軽くなった。愚痴を言いたい気持ちも破裂せずに済みそうだ。



愚痴を言いにくくなって良かった

結婚後、愚痴を言いにくくなったけれど、結果的には良かったと感じている。でなければ自分の愚痴の言い方、使い方が悪いことに気づけなかった。無自覚なまま今も無駄に垂れ流し、周囲も自分も幸せになれない愚痴り方をしていただろう。



私にとって愚痴は、問題点を洗い出せる道具なのだから、有効利用しなければもったいない。