匙を投げたいけど

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面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

「わかりやすい引き継ぎ」を目指したけど間違ってた

息子が入院した。幸い無事に帰宅したが、息子の無事以外にも入院生活で得るものがいくつかあった。以前、そのひとつとしてあんパンのこと(あんパンはダイエットの敵)を書いたが、今回は別のことを書きたい。



これまで私は、仕事で引き継ぎをされる側もする側も何度となく経験してきた。される側ではたいてい苦労した。そのため、する側になったときは相手に苦労させないよう、できる限りの手を尽くしてきた。マニュアルは懇切丁寧に作ったし、質問にもなるべく詳しく答えた。が、それは必ずしも正解ではなかったな、と気づかされた。



息子の入院は半月にわたった。夜は親が泊まり込んだが、仕事をずっと休むわけにもいかず、昼間は一人にしてしまう時間があった。安全面では看護師さんにお願いしていたので問題なかったが、不安と退屈はどうしようもない。テレビも見せていたが、彼好みの番組をつねに放映しているわけではない。そのため自分の古いスマートフォンを渡し、動画を見る方法を教えた。ちなみに動画はインターネットに接続して見るのではなく、私が撮影した、電車が走る姿などだ。



操作方法を教える際、できるだけ息子に操作させるようにした。私がそばについてアドバイスすることができないのだから、まずは自力でやってもらわないと、と考えたためだ。が、私がおこなってきた仕事の引き継ぎとは対照的な方法だった。これまでは、引き継ぎ期間が終わるまでは私がアドバイスできることを前提に「マニュアルを参考にしながら、私のやり方を見てて」と言いながら操作を見せる、みたいなやり方が多かった。これまでのやり方では、独り立ちさせることができていなかったな、と反省した。手を放せていなかった。息子にスマホ操作を教えるには、あまりに時間がなかったためにこういうやり方になったのだが、引き継ぎの目的を考えると、このやり方が正解なのかもしれない、と思った。



私は引き継ぎをする上で、「わかりやすい引き継ぎ」を目指してしまっていた。マニュアルを丁寧に作っていたのは、「わかりやすいように」という理由だった。自分ではそう思っていた。しかし、「自分が口下手だから口頭で説明しなくても済むように」とか「質問されてもうまく答えられる自信がないので質問が出ないように」とか、引き継ぎのときに自分が困らないようにする狙いが大きかったことにも気づいた。そもそも、マニュアルを読むのも向き不向きがある。新しい家電やゲームの説明書を読まずにいきなり電源を入れるタイプと、読んでから始めるタイプがいるのと同じだ。質問されたら詳しく答えていたつもりだったけれど、簡潔な回答を望む人も少なくなかっただろう。



引き継ぎの目的は、引き継がれる側が自力で作業ができるようになることだ。引き継ぎがわかりやすいに越したことはないし、わかりやすくする努力がまったく無駄とは思わない。私が引き継ぎを受ける側だったら、わかりやすい引き継ぎはとてもありがたい。けれど、引き継ぎがわかりにくくても作業が自力でできるようになれば、それが正解なのだ。私は引き継ぎの目的を見失い、手段ばかりを重視していたのだった。



息子にスマートフォンを操作させていて、もうひとつ気づいたことがあった。



私は「息子が退屈しないように」と動画を見る方法を教えていた。ただ、そもそも退屈をまぎらわせる手段は動画を見ることだけではない。スマートフォンをああでもないこうでもない、といじっていて楽しければ、それでも良いのだ。つい遊び方を教えがちだったが、どう遊ぶかを本人の自由にさせておくのもありなのだ。これは『いい親よりも大切なこと』という本にも書いてあった。それを今回、私は実感をもって知ったのだった。私がスマートフォンを息子に渡したのは、時間をつぶせること、自力で遊べることが第一目的だった。動画を見るのはマストではないのだ。



どうも私は近視になりがちだ。「なにが目的なのか」をしばしば見失い、目先のことしか考えられなくなってしまう。今後はもっと視点を上げる必要があるな、と思わされた入院生活だった。



そして我が家の3歳児は、自分で遊べるていどにはスマートフォンを使いこなせるようになった。彼がいじっているのを見て、私は電卓の表示桁数が増やせることを知った。私はつねに画面回転をロックしていたので、スマホを横にすると表示桁数が増えることに気づかなかった。「老いては子に従え」を痛感する日も、きっと遠くない。