匙を投げたいけど

匙を投げたいけど

面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

寛大になると怒らなくて済むけど、それってノウハウでもなんでもなくない?

ダメ元で、怒らないで育児ができるようになるための本を読んだ。「ダメ元で」と自分に言い聞かせつつではあったが、わりと藁にもすがる思いだった。そして納得がいかなかった。私には向いていない本だった。



その本は、要約すると寛大になると怒らなくて済むと説いていた。そりゃそうだよ。けどそれに納得して、その考えに至るまでが大変なんだよ。と、毎日子供にガミガミ言っている私は思うわけで、本当にどうすれバインダー。寛大になれとか、それが解決法になるだろうことは凡人にもわかる。けどその境地に至るにはどうすりゃいいのよ、って話だ。出家者対象の本だったのか。



「お行儀なんかできなくても、健康に生きてさえいればいいや」などと心底思えたら、そりゃ腹も立たないしガミガミも減るだろう。だけど長期的に見たらやっぱり良くないわけで。中期的にだって、来年あたり里帰りして義実家で行儀ガン無視で好き勝手にふるまう孫。それを「健康に生きてさえいればいいんですよ」とのたまう嫁。出禁必至である。私は今のところ義実家との関係が比較的良好(だと思っている)なので、それは避けたい。



これと根は同じ問題ではないか、と感じるものがもうひとつある。後悔のない人生を送る上での質問、「明日死ぬとしたら、今日したいことは本当にしたいことか」(正確には違うらしいが、ジョブスさんの名言とのこと)である。



この質問に、私は違和感がある。こんなことを問われたら、中長期的な視野は持てずに刹那的になってしまう。「お行儀なんかできなくても、健康に生きてさえいればいいや」と怒らなくなるのと同様、長期的視野に欠けているのでは、と片手落ちな気がしてしまう。



たぶん、一部のエッセンスだけで劇的に人生や育児が解決するなんて美味しい話はないんだろう。人生を良くするには「今日」のことだけじゃなく、「nヶ月後まで生きてるとしたら」「n年後までだとしたら」などを個々人の事情に合わせた割合で考えるべきだし、その時点の状況によっても割合を変える必要もあるだろう。育児も「今すぐしつけたいこと」「おいおいおぼえてほしい」みたいな感じで並行して考えるのが良いのだろう。不確定要素が多すぎて、難易度も高いけど。



ちなみに明日死ぬとしたら、私はビールを飲んだくれる。そのとき精神的に不安定だろうが、ちょっと落ち着いてようがそうなる。ちょっと落ち着いてたらジタバタしても仕方ないからビールでも飲もう、となるだろう。パニックになったら何をしていいかわからずあたふたした挙げ句、ビールを飲むだろう。いずれにせよ、生産的なことは何もしない確信がある。そして小言を聞こうとしない息子への腹立たしさも抱えたときも、ビールを飲むのである。酒は百薬の長。