料理をしたくない自分を認めたくなくて悪あがきした話
今年は料理を極力しないため、料理をしている。作り置きではない。
矛盾しているようだが、まあ聞いて欲しい。
私は料理が苦手である。センスもないし、やる気もない。
食べることやおいしいものは大好きだが、自分が手間や時間をかけてまでおいしいものを食べたいとは思わない。
猫舌のせいか、できたてを食べたい欲もない。
インスタント食品が好きだし、外食はもっと好きである。
お金と太らない身体があれば、いくらでも外食していると思う。
ちなみに学生時代、「お金がない」プラス「料理に手間をかけたくない」という生活をしていたら人生でいちばん痩せた。
あるときは白菜の浅漬けだけで三日三晩過ごした。
あるときはだしを入れたお湯につけてふやかした高野豆腐(煮ることすら面倒だった)を1個だけ弁当にした。
料理の手間的には楽だったし痩せることもわかったけど、さすがにもうできない。
当時は若かったこともあり、たまたま身体を壊さずに済んだだけだ。
こんな私だが、料理が苦手なままで良いと開き直っていたわけではない。
むしろ罪悪感はあって、かれこれ10年ほど格闘した。
レシピは書籍もインターネットも利用して、なんとかしようとした。
罪悪感を埋めようとして、レシピ本はけっこう買った。
しかしレシピを選ぶというのも、料理センスの賜物だと痛感するばかりであった。
レシピの選択基準が「できるだけ簡単そうで材料も少ないもの」で、足りない材料は足さず、面倒そうな手順をさらに省略するせいかもしれないが、できあがりはだいたい微妙である。
そもそも、足りない材料をなにかで代替できるのもセンスだと思う。
そこまで壊滅的にセンスがないのに、私は離乳食にも挑戦してしまった。
また懲りずにレシピ本を買った。やさしいという触れ込みのものを選んだ。
トマトは皮と種を取って与えろと書いてあった。
料理をする回数はできるだけ少なくするため、冷凍ストックがたくさん欲しかった。
そこで約1週間分を見込んで3個ほどトマトを煮込んだが、皮と種を取ったら製氷皿の氷3個分しかできなかった。
料理上手な先輩ママから「トマトの種なんて下から出てくるから大丈夫だよ…」となぐさめられ、私は本を投げた。
息子は市販の離乳食ですくすく育った。
離乳食が終わった今は、料理上手な夫の作るごはんですくすく育っている。
そうなのだ。私が手作りするより市販のほうが、はるかにおいしいのだ。
それなのにバレンタインで夫に希望を尋ねたとき、「手作り」の選択肢を入れてしまったときは本当にうっかりだった。
手作りっぽいキットでなんとか体裁は整えたが、迂闊な自分を呪った。
ごはん用手作りっぽいキットこと、惣菜の素。
市販されているだけあって、私はまんまとパッケージ写真につられた。
これなら自分にもできるかもしれない、と錯覚してしまうのだ。
ここでもできるだけ材料が少ないもの、手間が少ないものを選ぶ。
とくに玉ねぎを刻まなくて済むという点が最重要である。
玉ねぎ、あれは兵器である。硫化アリルめ。
催涙成分への憎しみはさておき、「惣菜の素が2個でお得に!」などというときはさらに罠にかかりやすくなる。
そのときは「割引だし、新しいものにも挑戦してみるか!」と買ってしまう。
「作ってみておいしかったら儲けものだし!」などと、楽しい気分にすらなる。
が、やる気はそのときが最大瞬間風速だ。
のちにストッカーの中で賞味期限が近くなっているのを見つけ、当時の自分に呪詛の言葉を吐きまくって消化する羽目になる。
そんなことを10年ほど続けてきて、やっと悟った。
私に壊滅的に欠けているのはセンスだけでなく、料理への熱意だ。
どうごまかしても、私は料理が好きになれないし、材料は揃ってもやる気は揃わない。
そろそろ未来の自分へ負債を回すのはやめよう、と決意した。
幸い、我が家は夫が料理上手なので、私が無理して料理をする必要がない。
というわけで今、自分をごまかすために買い込んだストックを減らすべく、料理中なのである。
このストック消化作業が終わったら、やる気と時間があるとき=そのあと一気に料理できるときにのみ材料を買うことにする。
ところで消化作業中の収穫として「うちのごはん きんぴらそぼろ春雨」は簡単でおいしかった。
準備する材料はひき肉だけで、私にさえ作れた。
ので、これはまた作るかもしれない。
あくまで、やる気と時間があるときだが。