匙を投げたいけど

匙を投げたいけど

面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

安定期前の悪阻、生理前の不調(PMS)

悪阻がしんどいけど安定期前だから公表できないのがつらいのと、生理そのものより生理前のほうがつらい(月経前症候群PMS)のは、なんとなく似てる。そう感じたことについて今回は書きたい。



※あくまで個人的意見で、私は生理そのものよりその前のほうがしんどいことが多い、というだけです。生理痛は鎮痛剤で解決できるから。ただ、生理そのものが死ぬほど(誇張表現じゃなく)しんどいかたもいらっしゃるので、くれぐれもそのへん誤解のないようお願いしたいです。本当に千差万別なので。また、悪阻のしんどさも症状も千差万別です。



悪阻を言えない気持ちは、よくわかる。安定期に入らないと妊娠は公表したくないけど、悪阻は安定期に入る前に始まることが多いので、ジレンマに陥る。でも安定期より前だと、流産したときに言わなきゃいけないのがなおさらつらくなるし、でも悪阻もしんどくて生活や仕事にも差し支えるし…というところだ。ただでさえ体調が悪いのに、そんなジレンマにまで苦しめられるのである。



余談ですが、パートナーさんに悪阻のつらさをわかってもらえない妊婦さんは、「終わらない二日酔い」と表現してみてほしい。二日酔いになったことのあるパートナーさんにしかわかってもらえないけど、うちの夫はこれですべて理解したとのこと。しかも夫が経産婦のお友達に話したところ、皆さん口をそろえて同意してくださったとのことなので、かなり伝わるのではないかと自負している。しかし私、つわり時期は毎晩(夜に吐き気が強くなる)しんどくて泣いてたんだけど、こう表現するまで夫はいまいちぴんと来ていなかったらしくて、ほんともう…苦しまぎれに口にした言葉でわかってもらえて幸いだったけどさ…



生理前のしんどい時期は、何も思うようにできないしミスも多いし、自分にがっかりして本当にイヤになる(自己肯定感が低いのにそう思うのは矛盾してるんだけど)。たぶん考え方を変える必要があるんだと思う。むしろボーナス期として、もう起きるだけでOKにして、それ以上のことができたら100点満点中1,000点!くらいに思わないとやっていられないと思う。体調が悪いときにすぐそんなポジティブになれたら苦労しないけどね!!



しかしながらこの身体のシステム、効率が悪すぎるのはどうにかならないもんかと思う。



現在、月経周期が約1ヶ月な私のいちばん多いパターンが、



生理開始から1週間くらい:まあ精神的にすっきりしている(でも週前半は下腹部が痛いので鎮痛剤が手放せない)



生理開始から1-2週間:精神的にどんどん下がって、2週間ほどでどん底



生理開始から2-4週間(次の生理までの2週間):どん底状態が次の生理開始まで続く。下腹部も痛くなり始める。ひどいときは生きるのをやめることも考える。



つまり、心も体もまあまあ好調、という日が1ヶ月あたり最大でも4日ほどなのである。なおかつその4日ほどに低気圧(雨や台風)が来れば、そのなけなしの好調も根こそぎ持って行かれる。設計ミスも甚だしい。



ちなみに月経周期が狂ったときはどうなるか。

  • 間隔が短い場合:調子の良い期間が短縮される
  • 間隔が長い場合:調子の悪い期間がいつまでも続く

つまり、好調期間は1ナノも増えないのである。憤懣やるかたない。



ただ最近、命の母という素晴らしいクスリ(合法)に出会ったので、ここでダイマする。私はこれで、生きるのをやめたいと思うことがほぼなくなった。合わない人もいるらしいけど、少量でも売っているし、たいていのドラッグストアで買えるので、試してみる価値はあります! 小林製薬さん、いつも本当にありがとうございます!



いずれにせよ、悪阻も生理痛もあらゆる体調不良も心が不調なときも、程度の軽重を問わず、気遣える余裕を、私も含めて多くの人が持てる世界になればいい、と願う。あと、しんどさを言えるときってどん底じゃなくて、言う元気(気力なり体力なり勇気なり)がちょっとだけチャージできたときなのかもしれない。でも本当に助けが必要なのは、どん底状態だ。だから、どん底状態のぐちゃぐちゃな言葉で打ち明けても助けてもらいたいと思うし、どん底状態を打ち明けてもらえたときにその人に寄り添える自分でいられると良いな、と思う。

寛大になると怒らなくて済むけど、それってノウハウでもなんでもなくない?

ダメ元で、怒らないで育児ができるようになるための本を読んだ。「ダメ元で」と自分に言い聞かせつつではあったが、わりと藁にもすがる思いだった。そして納得がいかなかった。私には向いていない本だった。



その本は、要約すると寛大になると怒らなくて済むと説いていた。そりゃそうだよ。けどそれに納得して、その考えに至るまでが大変なんだよ。と、毎日子供にガミガミ言っている私は思うわけで、本当にどうすれバインダー。寛大になれとか、それが解決法になるだろうことは凡人にもわかる。けどその境地に至るにはどうすりゃいいのよ、って話だ。出家者対象の本だったのか。



「お行儀なんかできなくても、健康に生きてさえいればいいや」などと心底思えたら、そりゃ腹も立たないしガミガミも減るだろう。だけど長期的に見たらやっぱり良くないわけで。中期的にだって、来年あたり里帰りして義実家で行儀ガン無視で好き勝手にふるまう孫。それを「健康に生きてさえいればいいんですよ」とのたまう嫁。出禁必至である。私は今のところ義実家との関係が比較的良好(だと思っている)なので、それは避けたい。



これと根は同じ問題ではないか、と感じるものがもうひとつある。後悔のない人生を送る上での質問、「明日死ぬとしたら、今日したいことは本当にしたいことか」(正確には違うらしいが、ジョブスさんの名言とのこと)である。



この質問に、私は違和感がある。こんなことを問われたら、中長期的な視野は持てずに刹那的になってしまう。「お行儀なんかできなくても、健康に生きてさえいればいいや」と怒らなくなるのと同様、長期的視野に欠けているのでは、と片手落ちな気がしてしまう。



たぶん、一部のエッセンスだけで劇的に人生や育児が解決するなんて美味しい話はないんだろう。人生を良くするには「今日」のことだけじゃなく、「nヶ月後まで生きてるとしたら」「n年後までだとしたら」などを個々人の事情に合わせた割合で考えるべきだし、その時点の状況によっても割合を変える必要もあるだろう。育児も「今すぐしつけたいこと」「おいおいおぼえてほしい」みたいな感じで並行して考えるのが良いのだろう。不確定要素が多すぎて、難易度も高いけど。



ちなみに明日死ぬとしたら、私はビールを飲んだくれる。そのとき精神的に不安定だろうが、ちょっと落ち着いてようがそうなる。ちょっと落ち着いてたらジタバタしても仕方ないからビールでも飲もう、となるだろう。パニックになったら何をしていいかわからずあたふたした挙げ句、ビールを飲むだろう。いずれにせよ、生産的なことは何もしない確信がある。そして小言を聞こうとしない息子への腹立たしさも抱えたときも、ビールを飲むのである。酒は百薬の長。

私が過去への執着を捨てた事件

こんまりさんいわく、ものを捨てられない原因は過去への執着と未来への不安とのこと。現在の私がものを溜める原因は、圧倒的に後者である。かつての私は過去への執着も大きかったが、ある出来事をきっかけに雲散霧消した。大学卒業時の引っ越しで、大切にしていたものを誤って捨ててしまったのだ。



昔の私は、思い出に執着して捨てられないものが多かった。たとえば、住んでいた家が取り壊されることになったが、その家の鍵はかなりの間、大事に持っていた。それも誤捨て事件のあとに見つけたときに、あっさり処分した。



誤捨て事件のおかげで過去のものが捨てられるようになった上に、グッズ収集癖もほぼなくなった。本やCDなどは、特典グッズがついていない通常版が欲しいと思うようになった。初回特典版などだと他のものとサイズが違ったりして、収納に不便なのだ。通常版じゃないものを選ぶのは、たとえばCDならボーナストラックで収録曲が多いとき。でもアレンジ違いだとか、カラオケバージョン収録とか、そもそも同じ曲だったら選ばない。本は、CDやDVD同梱版はよほどじゃないと不要(1回だけ見聞きするけど、そのあと見返したためしがないから)で、内容の補完冊子なら欲しいな、と思う。漫画だったら1枚絵のイラストペーパーは不要(よほど絵が好みの人なら迷うけど)で、四コマだとか設定だとか、なんらかの補完情報があるなら欲しい。要するに情報なら欲しい。



引っ越し後、誤って捨ててしまったことに気づいたときは、本当にショックだった。が、あとから考えれば良いほうに転じたと思う。一歩まちがえれば鉄道模型夫になりかねない荒療治だったので、決しておすすめはできないが。



ところで何を誤捨てしたかというと、当時好きだった芸能人からのファンレターの返信だ。その人は芸能界を引退してしまって、もう見ることはできない。けれど間接的にせよ、私の人生を確実に良いほうに変えてくれた。ある意味、恩人である。

シンクスライドラックをめぐる愛憎

シンクスライドラックが憎い。「ニクいね、この!」とかいうポジティブな意味ではない。



ちなみにこの記事を書こうと思うまで名称を知らなかったが、台所の流しの上に乗せる、伸縮式の簡易棚である。食器などをちょい置きして料理の作業スペースを広げたり、洗い終わったものを乾燥させたり、という用途があるようだ。これを夫が食器片付けをしたあと必ずといっていいほど使うので、閉口している。



私はシンクスライドラックを使いたくないので、洗い桶に食器がたまったら拭いて片づけてから、また続きを洗う。しかし夫は、自然乾燥信仰が激しいのか、単に拭いて片づけるのが面倒なのかわからないが、隙あらばシンクスライドラックを置いて乾燥させる。これがあると流しが塞がって、まず片づけてからでないと次の作業をしづらいので、私はため息が出る。ひそかにきらいな家具(道具)だ。



また、これがあるとちょっとした行為の難易度がいきなり上がる。たとえば台所で水を飲みたいとき、手を洗いたいとき。軽率に蛇口をひねれば、乾燥した食器に水滴が飛び散る。ちょっとした行為なのに、慎重を期す必要が生じる。私はその不便さが耐えられないので、シンクスライドラックを見つけるとすぐに駆除してしまう。



たぶん夫は「次の作業前に片づければいいだろう」といった考え方なんだと思う。時間が乾かしてくれれば、「拭く」という作業が省けるわけだし。いっぽう私は思いついたときにすぐ作業に入りたいので、できるだけ片づけまで済ませてしまいたい。良し悪しではないと思う。ただ価値観が違うというか相性が悪いな、と思う。



職場で、シュレッダーのごみがパンパンになるまで待つ人と、ある程度たまったら次の人のために片づけようと思う人が相性が悪いのと同じだろう。袋のコストを重視する人は前者を是とするだろうし、コスト度外視で作業のスムーズさや思いやりを重視する人だったら後者を好ましく感じるだろう。そして、後者のほうが多めにイライラするのも同じだと思う。シュレッダーのごみがパンパンになるまで待つ人は、こまめに片づける人よりも袋を交換する回数が少ないからである。職場で統一した方針を決めるか、いっそ一切の紙資料を廃止するかくらいしか解決法はない。



シンクスライドラックについては、家庭内で統一した方針を決めようにも、うまくいかない。夫は好きで便利に使っていて、不便を感じているのは私だけなのだから、私が我慢するしかない。これが原因で離婚などはしたくないので、仕方がない。あとは根本的に一切の食器や鍋を使わない生活をするしかないが、それも無理だ。



そんなわけで私は今日も顔をしかめ、シンクスライドラックを片づけるのである。

「みんな仲良く」という夢

「みんなと仲良くしよう」。学校生活ではそう教えられてきたし、そうしなければならないと信じていた。



しかし自分は誰とでも器用に仲良くできるタイプではない。とくに性格や考え方やスタンスなどが合わない人とはなかなか仲良くできない。少数でも深い友達がいれば、それでいいと思っていた。



けれど学校で教えられたことができない自分に引け目があった。素直と言えば聞こえは良いが、教えられたことをわりとうのみにする子供だった。だから本当なら友達は幅広く求めなければならない気がしていた。そして友達は多ければ多いほど充実しているのではないか、という考えに長らくとらわれてきた。ただ学生時代、私から見て友達が多い(自分でも「友達を増やすことが好き」と言っていた)と感じた同級生の口癖が「ヒマなんだけど、なんかおもしろいことない?」だったので、それはすごく不思議だった。「あんなに友達がいるのに?」と思うと同時に、私は余暇どころか生活時間さえも削って趣味に掛けたいタイプのオタクだったからだ。余談だが、その同級生が友人の前で言う「友達もっと欲しいなー」はちょっと失礼なんじゃないかと感じていた。そもそも私とその人は価値観がだいぶ違ったのだろう。



大人になってからは、合わないタイプは職場にもどうしてもいる(むしろ友達になれそうな人のほうが少ない)。だから、仕事がしづらくない程度にコミュニケーションを取ればいいのだ、となんとなくわかってきた。友達になる必要はなかった。長いあいだ非正規労働者をやってきて、どこの職場にもいまいち合わないタイプがいることはわかったのは、とても大きな収穫だった。完璧にハッピーな職場などない。



そして職場に限らず、大人数が集まる学校でも、合わないタイプとは距離を取っていてよかったのだ。そう気づいたのは大人になって久しい、つい最近だ。学校などの集団では、どうしても合わない人がいる可能性が大きいけれど、適度な距離を保って集団生活をすることも可能なのだ。むしろ適度な距離を保って付き合ってもいい、ということを学校で教わりたかった。でも実際に教わったのは「みんな仲良く」だった。



「みんな仲良く」「友達は多いほうがいい」は、学校教育でそう教えられてきたこともあるが、藤本ひとみ先生の『漫画家マリナ』シリーズの影響もかなりあるかもしれない。読んだのが昔だし、今は絶版になっていて入手困難らしいのでうろおぼえの記憶だが。



主人公マリナは売れない三流漫画家。父親の仕事の都合で転校をくり返しており、行く先々で積極的に友達を作っては連絡先をメモしており、取材先には困らない、という設定だ。マリナは作中ではスペックが低いとされており(でも少女小説の主人公だからかアホほどの美形にアホほどモテる)、友達の多さが唯一誇れるもの、みたいな描かれ方をしていた。



しかし私自身はスペックが低い上に、対人関係も下手だった。「友達が多くないと、本当にどうしようもないんだ!」とかなり焦ったし、絶望的にもなった。マリナシリーズを読みながらモヤモヤしていたのは、そのやるせなさから来ていたと思う。モヤモヤしながらも読むことをやめられなかった、そんな魅力的な小説だともいえるのだが。今なら「フィクションだから」「自分には向いていないから」と割り切ることができる。



私がどれくらい対人関係に稚拙かというと、学生時代は自分などに近づいてくれる数少ない人を失ってはならないと思っていた。そのため、困った癖(真夜中に電話をかけてくるとか終わらない愚痴を聞かされ続けるとか)にもとことん付き合っていた。なんとなく、それをきっちりこなしていれば、いつか周囲にはストレスのたまらない友人だけになるかもしれない、という希望があったのだ。ストレスがたまらない友人しかいないという状況を、ある種のご褒美として捉えていたように思う。



しかし、困り癖に付き合ったからといってストレスのたまらない友人が増えるわけではなかった。むしろ困ったさんとひとからげにされて、まともっぽい人々からは敬遠されていくような気がした。そして困ったさんや、困り癖はなくてもこちらが利用されてるような気分にさせられる人が、身の回りに増えた気がした。そのうちたまりかねて、困ったさんに「もう真夜中の電話には付き合えない」と宣言して疎遠になったが、非常に疲れた。そしてもう懲りて、新たに良好な対人関係を築くことは諦めてしまった。現在私に付き合ってくれている人々は、この上なく奇特な人々である。または友人だと思われていないか。



もう、良好じゃなくても仕方ない。合わない人やストレスがたまる人との距離を置いた付き合い方を身に着けたい。そして、「このやり方でも大丈夫」と思う勇気を持ちたい。



……と、現実ではそう思うのだが、フィクションでは必要以上に仲良しな集団が大好物なオタクである。見るのも書くのも楽しい。まあ、「みんな仲良く」は夢だからね。

つぶつぶオレンジは振らなくていい

つぶ入りオレンジジュースをお中元でいただいた。果物は好きではないがオレンジジュースはわりと好きなので、ありがたく飲んでいる。ただ自分で買うとしたら、つぶ入りは選ばない。



つぶ入りジュースを飲むには、いったん振ってからお飲みくださいと書いてある。まんべんなく果実を味わえるからだろう。実際、私はそのとおりにしていた。



だがある日、うっかり振り忘れて飲んだ。かなり快適だった。



考えてみれば、自分はオレンジジュース部分は好きだが、果実部分は好きではない。むしろ不要だ。だって私は果物が苦手だし、口当たりもよくない。意識していなかったが、つぶ入りジュースを飲むときは、果実に対するわずらわしさを我慢しながら飲んでいたのだった。



ということは、あえて振らずに飲んでも良いのではないだろうか。かなり長年気づかなかったのは痛恨なのだが、気づいたのでまあ良しとする。



このように、説明書きのとおりに実行してきたことはこれだけではないと思う。でも、致命的なエラーを引き起こすようなものでないならば、自分に快適なようにカスタマイズするのも手なのだな、と今回のつぶつぶオレンジ事件で気づいた。



話は少し変わるが、好きな作家さんの本は、好きだというからにはすべて買って読まなければ、と思っていた。いったん好きになった作品も、もし自分の好みと外れた展開になっても、最後まで買うのが義務だと思っていた。そうでないと「好き」と言う資格はないような気がしていた。



けれど昨今は情報過多かつ、自分の経済的時間的余裕がなくなった。そのため、とてもではないが全買いは実行できなくなった。それに先方はプロなので、一読者に過ぎない私が義理立てしなくても、好みではない作品を買う必要は別にないのだな、と気づいた。好きだとは言わなくても(言えなくても)、心地よく感じられる作品をひっそりと愛でるのもありなのだ。自分が追える範囲で応援して、ファンを名乗るのもありだろう。私はまだその境地には至れないが、その境地に至れたらもっと人生が楽しいだろうな、と思う。



ところで私はこしあんよりつぶあん派なので、つぶ入りジュースの欠点として「口当たりがよくない」を挙げるのは、矛盾しているかもしれない。

自信たっぷりっぷりとゆるゆるふわふわ

情報を得るために本やインターネット記事や個人ブログを読みあさっていて、自分は自信たっぷりの人が苦手だということに気づいた。うすうす思ってはいたけれど。ただ、自信たっぷりっぷりにも、受け容れられるたっぷりっぷりとそうじゃないたっぷりっぷりがある。



「軸がぶれない」自信たっぷりっぷりは、その考えに至った経緯がわりと理解・同情・共感できると、自分と意見が合うにせよ合わないにせよ、好ましく感じる。もし意見が変わる場合も、その変化に至った理由まで教えてもらえると、さらに好感度がアップすると思う。



それに対し、同じ自信たっぷりっぷりでも「異論は受け付けない」「自分の意見を押し付ける」のは本当に苦手である。「言い切る」のもちょっと抵抗を感じてしまう。説得力や表現のわかりやすさを追求して、仕方なくばっさり切っている人もいるだろうとは思うのだが。また上司だと話は違うかもしれない。曖昧な言い方で方針をころころ変えられると困るので。でもだからって言い切った上で方針をころころ変えられるのも困りますよ、上司のかた!!



情報などを読みあさっていて受け容れやすいと思うのは、押し付けがましいものではなく、「自分はこういうやり方だ」という示し方をしてくれるものだ。あとはユリアンが言うところのヤン提督の「なれるといいね」も理想的だ。銀河英雄伝説外伝2巻は愛読書です。



ただ、「本当に自信がある人なら、他人の意見も聞いて参考にする」という意見もある。納得だ。



ところで今回の記事、自分に自信がなくて自分の意見にも自信はないのに、押し付けられると抵抗を感じる、という私の面倒くささが十二分に発揮されているなあと思う。あと自分の記事に言い切りが少ないのは、こういう苦手感があるからである。説得力をつけるには言い切るべきだ、といろんなところで読むんだけど、まだ勇気が出ないのだ。ここはゆるふわブログです。(たぶん意味が違う)