匙を投げたいけど

匙を投げたいけど

面倒くさがりで面倒なオタクが、脳トレがてら考えたことを書いています。

消去法を生きてしまう

半年ほど前に書いた、「ダイエットのために好きなものを先に食べる習慣」がまだ身についていない。当然ダイエットもはかばかしくない。どうもそう簡単にいく問題ではなく、自分の中で根深かったらしい。



あの記事を書いた時点では、私の好きなものを最後に食べる習慣は、最後においしいものだけ残っていれば幸せになれるからだろう、と思っていた。それなら幸せになる時間を前倒しにすればいいじゃないか、と。前後を入れ替えるだけなのだから簡単にできると考えていた。



だが、どうやら一筋縄ではいかないことがわかってきた。



先日、アソート味噌汁をもらった。いろんな種類があるので食べ比べてみた。中には、自分の口には合わないと思ったものがあった。夫もそれが好みではないとのこと。そして私は、好まれない種類ばかりを食べるようになった。早く消費したいと思う気持ちが強すぎて、それを残すとか処分するとかいう選択肢がないのだ。ダイエットを考えるなら、不要なカロリーは摂らないほうが良いというのに。



食べ物だけではなく、日用品でもそうだと気づいた。履き心地がいまいちの靴下とか、書きにくいペンとか、香りが好みではないシャンプーとか、そういうものを優先して使ってしまうのだ。これまた早く消費しようという気持ちが強すぎる。断捨離的観点からもよろしくない。悲しいことに、好みでないものを使い切っていざ好みのものを使おうとすると、ペンがインク離れ(ペン先とインクの間に空気が入っている)していたり、もっと良いシャンプーが発売されていたりする。靴下は今のところ無事である。



もちろん、耐えて使っているばかりではない。「これを使い切れば、後ろめたさがなく好きなものが使えるのだ!」というわくわくした気持ちがもちろんある。



けれど、人生はいつ終わるかわからない。好みのものを使ってからそのとき次のことを考えるという手段だってあると、頭ではわかる。が、自分にそれを許すことができない。好みのものから使ったときの後ろめたさや罪悪感が大きすぎる気がする。損失回避の法則(*1)が働きすぎているのだろうか。考え方の基本が、消去法になっているようだ。



*1,損失回避の法則のことに触れた記事がこちら→減らしたいもの



自分の失敗を認めたくないから、証拠隠滅がてらそれを早く消化する、という考え方もある。が、前述の味噌汁はもらい物なので、自分の失敗ではない。注文したメニューに好みでない料理があったときに、それから手をつけてしまうことも、説明がつかない。



思い出せないのだが、我慢していたら良い結果になったことや、我慢しないと悪い結果になったことがあるのかもしれない。そういえば、好きなことを主張するのが下手な子供だったなあ、という記憶はおぼろげにある。



また、母が昔から自分を後回しにするのはずっと見てきた。食べ物も、テレビも、予定も。母親というものは、自分を後回しにして家庭のために尽くさねばならない役割なのだな、と感じていた。実際に言われたわけではないが、母の行動がそう示していた。そして今では、なかなかそうできない自分が、母親失格のような気がしてしまうのである。



ひとつだけ、自分を我慢させないでできていることがある。友人たちとの飲み会だ。友人たちとの飲みはなるべく参加したいイベントなので、幹事を買って出て、自分に都合の良い日程を設定するようにしている。



ところでこれは完全に愚痴なのだが、幹事をしていて納得がいかないのが、都合の良い日程がほとんどない人に限ってドタキャンが多いことだ。卵が先か、ニワトリが先か、みたいな問題ではあるが。多忙が先か、ドタキャンが先か。



飲み会の日程を決める際、よく○・△・×をつけて日程調整するシステムを使っている。×が多い人が参加できるように、と△の人が調整してくれたのに、×が多かった人がギリギリで「やっぱりその日はダメになりました」などと言いだす。すると狭量な幹事である私は、「あなたがその日じゃなきゃダメって言ったからみんな調整してくれたんじゃん…」とモヤモヤしてしまうのである。自分も調整していた場合はモヤモヤもさらに増す。日程調整に余裕があるうちに不参加を決めてくれれば、みんなが○の日に設定できたじゃないか、と納得できない気持ちになってしまうのである。たぶん幹事には向いていない。でも飲みは参加したいのでやる。



そして飲んでいる以上、ダイエットは当然ながらはかばかしくない。